台湾の交通
台湾
総督府は台湾の近代化のために都市整備と交通改善を実施している。その中で鉄道建設が最重要政策とされ、また一定規模を有する道路建設も重要項目として整備された。交通の改善により台湾の人口は1895年の260万人から1945年の650万人に増加し、台湾の南北を連絡する交通網は台湾社会の大動脈として現在も利用されている。
鉄道
1899年11月8日、台湾の鉄道を管轄した鉄道部(台湾総督府鉄道)が総督府内に設立された。成立後総督府は台湾での鉄道建設を積極的に推進し、1908年には台湾南北を縦貫する縦貫線を完成させるなど、それまで数日を必要とした移動を1日で移動できる空間革命となった。
鉄道部はその後も鉄道整備を推進し淡水線、宜蘭線、屏東線、東港線などを建設すると共に、私鉄路線であった台東南線(現台東線の一部)、平渓線を買収した。このほか林田山、八仙山、太平山、阿里山などの森林鉄道の整備も進められていた。
このほか総督府は北廻線、南廻線、中央山脈横断線などの調査も行ったが、これらの新規路線は太平洋戦争の激化により計画にとどまっている。また、台北市は市内に市電を敷設する計画を建てたが、財政難のため計画のみで中止されている。民間企業による鉄道建設も進み、台湾糖業鉄道、塩業鉄道、鉱業鉄道、人車軌道などが軽便鉄道として台湾各地を網羅し台湾における交通の要となっていた。
国民政府により台湾の資源を収奪した植民地時代として否定的な評価が行われるが、鉄道に関して確実に戦後の台湾経済の発展に大きな影響を与えた遺産 となっている。現在台湾の鉄道輸送に対する依存度は低下したが、しかし鉄道網の日本統治時代の鉄道路線をそのまま踏襲し、重要な輸送手段の一つとして使用 されている。
道路
鉄道の整備に比べ、日本統治時代の道路建設は積極的なものでなかった。濁水渓や下淡水渓(現・高屏渓) など比較的川幅の広い河川への橋脚整備が未整備であった。しかし日本統治時代後半になると道路網の整備も一定の成果があると、鉄道と自動車輸送の競争が生 じ多くの軽便鉄道がバス輸送に代替された。このバス輸送に対し鉄道部は鉄道との平行バス路線を買収するなど対策を行っていた。
また市内交通では「乗合自動車」が設置され、鉄道駅を中心に放射状のバス路線が整備されていた。
港湾
台湾の海運業の改善と、日本の南方進出のための中継港湾基地として総督府は基隆港、高雄港の築港を行い、大型船の利用と鉄道連絡が可能な近代的港湾施設が整備された。そのほか台湾東部や離島との海上交通の整備の一環として花蓮港や馬公港などもこの時代に整備されている。