台湾総督
台湾総督
沿革
1895年(明治28年)に台湾総督府が設置されてから1945年(昭和20年)にこれが廃止されるまで、19名の台湾総督が任命されている。在任 の最長は佐久間左馬太の9年1ヵ月、最短は南弘の2ヵ月で、在任の平均はおよそ2年半となっている。これらの総督は一般にその出身母体から、前期武官総督、文官総督、後期武官総督の三種類に分類されている。
前期武官総督の時代
初期の台湾統治は、現地居住民の抵抗運動を抑圧する必要性から、軍事力を前面に打ち出した強硬な姿勢で行われた。この頃の総督には行政権と司法権、そして台湾駐屯の陸海軍の指揮権はもとより、六三法によって特別立法権までもが付与されており、この統治四権を一手に握る総督の権限は絶大なものだった。
こうした事情から、この時代の総督に任命された樺山資紀、桂太郎、乃木希典、児玉源太郎、佐久間左馬太、安東貞美、明石元二郎の7名はいずれも現役の大将または中将で、しかも初代総督の樺山を除いてそのすべてが陸軍出身者で占められている。
そうした中で、4代総督の児玉の頃から統治政策に変化があらわれる。いわゆる「飴と鞭」の硬軟を使い分ける方針がそれである。6代総督の安東と7代 総督の明石は特に現地居住民の権益を保護する政策を実施したことで知られる。総督在任のまま死去した明石は、台湾に墓地が建立された唯一の総督でもある。
文官総督の時代
その明石が総督のとき、総督の下にあった台湾軍の指揮権を台湾軍司令官に移譲したため、以後台湾では文官でも総督になることが可能になった。
文官総督時代には、田健治郎、内田嘉吉、伊沢多喜男、上山満之進、川村竹治、石塚英蔵、太田政弘、南弘、中川健蔵の9名が総督に任命されている。いずれも内務省、逓信省、農商務省などの高級官僚や外地の民政担当官を経て貴族院議員に勅任された勅選議員で、その時々に政権を担当していた政党の推薦を受けて任命された。
台湾の統治方式を抗日運動の鎮圧から経済の構築による社会の安定に転換したのがこの時期にあたる。
後期武官総督の時代
二・二六事件は陸軍の青年将校が起したものだったが、事件後の綱紀粛正の名のもとに海軍からも大将2名を予備役に編入することになった。この貧乏くじを引いたのが連合艦隊司令長官を退任したばかりの小林躋造海軍大将で、その処遇のために彼を台湾総督にしたのは当時の新聞が「異例中の異例人事」評するほどの驚愕人事だった。
小林は在任4年半の間に現地人の皇民化政策を推進したが、ちょうどこの頃に海軍の南進策が国策として固まったことから、次の台湾総督も海軍出身者をということになり、長谷川清海 軍大将がこれに決まった。この長谷川もそろそろ予備役に編入されておかしくない年齢だったが、台湾の軍事拠点化を推進するという建前もあって現役のまま総 督に就任、ここに武官総督が復活することになった。ただし台湾軍の指揮権は依然として台湾軍司令官のもとに、後にはこれを改編した第10方面軍司令官のもとにあり、長谷川は武官総督といってもその性格は前期のそれとは大きく様相を異にするものだった。
ところが太平洋戦争で日本の敗色が濃くなった1944年(昭和19年)暮、台湾決戦を想定して指揮系統を一本化するという名目のもと、第10方面軍司令官の安藤利吉陸軍大将に台湾総督を「兼任」させるという本末転倒の人事がなると、ここに後期総督も前期総督と同等の強大な権限を持つに至った。しかしそれも束の間、翌年日本が無条件降伏すると台湾総督府も解体されることになり、1945年(昭和20年)10月25日、安藤は陳儀中華民国台湾省長官との間に降伏文書を交わす。ここに半世紀にわたった台湾総督府の歴史に幕が下された。