台湾の農業

 

水利事業

日本統治時代、台湾の主要産業は農業であり、水利施設の拡充は台湾経済発展に重要な地位を占めていた。もう業方面では地籍登録事業により台湾の耕地面積を確定させた後、水利事業の整備を推進した。 1901年、総督府は『台湾公共埤圳規則』を公布、以前からの水利施設を回収すると共に、新たに近代的な水利施設を建設することをその方針とした。これら水利事業の整備は台湾の農業に大きな影響を与え、農民の収入を増加させるとともに、総督府の農業関連歳入の増加を実現している。

嘉南大圳

台湾南部に広がる嘉南平原は大河川が存在しない上に降水量が乏しい地域であり、秋から冬にかけては荒涼とした荒野になっていた。総督府技師の八田与一は10年の歳月を費やし、当時東南アジアで最大の烏山頭ダムを完成させると、1920年には嘉南大圳建設に着工、1934年に主要部分が完成すると嘉南平原への水利実現に伴い、台湾耕地面積の14%にも及ぶ広大な装置を創出した。

嘉南大シュウ

嘉南大圳から転送)
移動: 案内検索
本来の表記は「嘉南大圳」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。

烏山頭水庫と嘉南大圳の主な灌漑水路。

旧嘉南大圳組合事務所(台南市市定古蹟)

嘉南大圳(かなんたいしゅう、拼音: Jianán Dàzùn )は、元の名を官佃溪埤圳といい、日本統治時代の最重要な水利工事の一つであり、台湾総督府の技師八田與一が設計し、工程には当時東南アジア最大だった烏山頭ダムも含んでいた。

1920年9月に土木工事を興し、当時の嘉義庁台南庁(現雲林嘉義台南等の県市)地区を灌漑区域とした。1930年4月、総工費5,414万円をかけて竣工し[1]嘉南平原の水田は30倍と大幅に増加した。

概要

1920年から1930年にかけて工事は広範囲にわたって行なわれることから、その工事には工事用軌道も敷設された。先ず烏山頭ダムが建設され、その後水路が開削されて曽文渓濁水渓二つの水系を接続している。烏山頭ダムで取水された後、北幹線と南幹線に分かれる。北幹線は烏山頭より北に向かい、急水渓八掌渓朴子渓を越えて、北港渓南岸に至る。南幹線は南に向かって官田溪、曽文溪を越えて台南市善化区に至る。また烏山頭ダム以外に濁水渓にも3箇所の取水口が設けられており、それぞれ林内第一取水口、林内第二取水口と中囲子第三取水口がある。林内第一取水口から取水したのが濁幹線で、旧虎尾渓の左岸に沿って南に向い北港渓に至り、北幹線と接続されている。

参考文献

  1. ^ 王萬邦『台灣的古圳道』 遠足文化、2003年、ISBN 9572856103

関連項目