満州国国家体制
国家体制
政治
満洲国は公式には五族協和の王道楽土を理念とし、アメリカ合衆国をモデルとして建設され、アジアでの多民族共生の実験国家であるとされた。共和制国家であるアメリカ合衆国をモデルとしていたものの、皇帝を国家元首とする立憲君主制国家である。五族協和とは、満蒙漢日朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うこと、王道楽土とは、西洋の「覇道」に対し、アジアの理想的な政治体制を「王道」とし、満洲国皇帝を中心に理想国家を建設することを意味している。満洲にはこの五族以外にも、ロシア革命後に共産主義政権を嫌いソビエトから逃れてきた白系ロシア人等も居住していた。
その中でも特に、ボリシェヴィキとの戦争に敗れて亡ぼされた緑ウクライナのウクライナ人勢力と満洲国は接触を図っており、戦前には日満宇の三国同盟で反ソ戦争を開始する計画を協議していた。しかし、1937年にはウクライナ人組織にかわってロシア人のファシスト組織を支援する方針に変更し、ロシア人組織と対立のあるウクライナ人組織とは断交した。第二次世界大戦中に再びウクライナ人組織と手を結ぼうとしたが、太平洋方面での苦戦もあり、極東での反ソ武力抗争は実現しなかった。
満洲国は建国の経緯もあって日本の計画的支援のもと、きわめて短期間で発展した。内戦の続く中国からの漢人や、新しい環境を求める朝鮮人などの移民 があり、とりわけ日本政府の政策に従って満洲国内に用意された農地に入植する日本内地人などの移民は大変多かった。これらの移民によって満洲国の人口も急 激な勢いで増加した。
国家機関
満洲国政府は、国家元首として執政(後に皇帝)、諮詢機関として参議府、行政機関として国務院、司法機関として法院、立法機関として立法院、監察機関として監察院を置いた。
国務院には総務庁が設置され、官制上は国務院総理の補佐機関ながら、日本人官吏のもと満洲国行政の実質的な中核として機能した(総務庁中心主義)。それに対し国務院会議の議決や参議府の諮詢は形式的なものにとどまり、立法院に至っては正式に開設すらされなかった。
元首
元首(執政、のち皇帝)は、愛新覚羅溥儀がつき、1937年(康徳4年)3月1日の帝位継承法制定以後は溥儀皇帝の男系子孫たる男子が帝位を継承すべきものとされた。
帝位継承法の想定外の事態に備えて、満洲帝国駐箚(駐在)大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官との会談で、皇帝は、清朝復辟派の策謀を抑え、関東軍に指名権を確保させるため、自身に帝男子孫が無いときは、日本の天皇の叡慮によって帝位継承者を定める旨を皇帝が宣言することなどを内容とした覚書などに署名している。
行政
1932年(大同元年)の建国時には首相(執政制下では国務院総理、帝政移行後は国務総理大臣)として鄭孝胥が就任し、1935年(康徳2年)には軍政部大臣の張景恵が首相に就任した。
しかし実際の政治運営は、満洲帝国駐箚大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官の指導下に行われた。元首は首相や閣僚をはじめ官吏を任命し、官制を定める権限が与えられたが、関東軍が実質的に満洲国高級官吏、特に日本人が主に就任する総務庁長や各部次長(次官)などは、高級官吏の任命や罷免を決定する権限をもっていたので、関東軍の同意がなければこれらを任免することができなかった。
公務員の約半分が日本内地人で占められていた。関東軍は満洲国政府をして日本内地人を各行政官庁の長・次長に任命させてこの国の実権を握らせた。これを内面指導と呼んだ(弐キ参スケ)。しかし、台湾人(満洲国人)の謝介石は外交部総長に就任しており、裁判官や検察官なども日本内地人以外の民族から任用されるなど[27]、日本内地人以外の民族にも高位高官に達する機会がないわけではなかった。
以上の事実に鑑み、日本内地人が圧倒的優位に立つ植民地的国家であったという評価[28]がされることが多いが、日本内地人以外の諸民族も一定の地位を占めたことを重視して、五族協和の建前がある程度は実現されていたという評価もある[要出典]。
選挙・政党
憲法に相当する組織法には、一院制議会であるとして立法院の設置が規定されていたが選挙は一度も行われなかった。政治結社の組織も禁止されており、満州国協和会という官民一致の唯一の政治団体のみが存在し、政策の国民への浸透や国政の指導を執り行った。
法制度
憲法に相当する組織法や人権保護法を始めとして、日本に倣った法制度が整備された。当時の日本法との相違としては人権保護法において法の下の平等が 保障されたこと、組織法において、各閣僚や合議体としての内閣ではなく、首相個人が皇帝の輔弼機関とされたこと、刑法における構成要件はほぼ同様である が、法定刑が若干日本刑法より重く規定されていること、検察機構が裁判所から分離した独自の機関とされたことなどが挙げられる。
外交
正式な外交関係を結んでいた諸国
第二次世界大戦開戦前の1939年当時において、ドイツ(1938年2月承認[29])やイタリア(1937年11月承認[30])が承認、さらに第二次世界大戦の勃発後にもフィンランドをはじめとする枢軸国、タイ王国などの日本の同盟国、クロアチアなどの枢軸国の友好国、スペインやデンマークなどの中立国など、合計21か国が満洲国を承認した[要検証 ]。
1939年(昭和14年)当時の世界の独立国は60か国未満であった。
大日本帝国(枢) – 1932年(大同元年)9月15日、日満議定書によって承認
エルサルバドル(連)- 1934年(康徳元年)3月3日、日本に続いて2番目の承認国[31]
コスタリカ(連)- エルサルバドルと同時に承認[32]
中華民国南京国民政府(枢) – 1940年(康徳7年)11月30日の日満華共同宣言によって相互承認
タイ(枢)
ビルマ国(枢)
フィリピン(枢)
蒙古聯合自治政府(枢)
自由インド仮政府(枢)
ドイツ国(枢) – 独満修好条約によって承認
イタリア王国(枢) – 後に日満伊貿易協定を締結
スペイン
ポーランド(連)※
クロアチア独立国(枢)
ハンガリー王国(枢)
スロバキア共和国(枢)
ルーマニア王国(枢)
ブルガリア王国(枢)
デンマーク(ドイツ占領下)
フィンランド(枢)
(枢)のついている国は第二次世界大戦時の枢軸国(その後離脱した国を含む)(連)のついている国は連合国。※ポーランドについては1938年10月19日交換公文により相互に最恵国待遇を承認し、満洲国からは事実上の国家承認とみなされていた。
上記の国の内、日本と南京国民政府に常駐の大使を、ドイツとイタリアとタイに常駐の公使を置いていた[33]。東京に置かれていた満洲国大使館は麻布区桜田町50(現在の港区元麻布)にあり、ここは日中国交正常化後、広大な敷地を持つ中華人民共和国大使館に代わった[34]。在日本大使の一覧も参照されたい。
外交上の交渉接点があった諸国
国際慣例では、ある使節団との接触を明示的に拒否し続けなければその使節団を派遣した「国家」を承認したということにはならず、「国交」のない使節団のために領事館を設営することを承認したからといって暗示的に国家承認を与え(られ)たことにはならない[35]。このため、満洲国は正式な外交関係が樹立されていない諸国とも事実上の外交上の交渉接点を複数保有していた。
ソビエト連邦とは満洲国建国直後から事実上の国交がありイタリアやドイツよりも長い付き合いが存在した[36]。満洲国が1928年の「ソ支間ハバロフスク協定」にもとづき在満ソビエト領事館の存続を認めるとソ連は極東ソ連領の満洲国領事館の設置を認め、ソ連国内のチタとブラゴヴェシチェンスク[37]に満洲国の領事館設置を認めた[12]。さらに日ソ中立条約締結時には「満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵」を尊重する声明を発するなど一定の言辞を与えていたほか、北満鉄道を満洲国政府に譲渡するなど、満洲国との事実上の外交交渉をおこなっていた。満洲国を正式承認しなかったドミニカ共和国やエストニア、リトアニアなども満洲国と国書の交換を行っていた。バチカン(ローマ教皇庁)は、教皇使節 (Apostolic delegate) を満洲国に派遣していた[38]。
外交活動
満洲国は1941年(康徳8年)に日独伊防共協定に加わっている。1943年(康徳10年)に開催された大東亜会議にも張景恵国務総理大臣が参加している[39]。
一方、満洲国は日独伊三国同盟には加盟しておらず、第二次世界大戦においても連合国への宣戦布告は行っていない。しかしながら日本と同盟関係を結び日本軍(関東軍)の駐留を許すなど、軍事上は日本と一体化しており実質的には枢軸国の一部であったとも解釈できる。
軍事
詳細は「満州国軍」を参照
満洲国の国軍は、1932年(大同元年)4月15日公布の陸海軍条例(大同元年4月15日軍令第1号)をもって成立した。日満議定書によって日本軍(関東軍)の駐留を認めていた満洲国自体の性質上もあり、「関東軍との連携」を前提とし、当初は「国内の治安維持」「国境周辺・河川の警備」を主任務とした軍隊というよりは関東軍の後方支援部隊、或いは警察軍や国境警備隊としての性格が強かった。
後年、大東亜戦争の激化を受けた関東軍の弱体化・対ソ開戦の可能性から実質的な国軍化が進められたが、ソ連対日参戦の際は所轄上部機関より離反してソ連側へ投降・転向する部隊が続出し、関東軍の防衛戦略を破綻させた。
経済
詳細は「満州国の経済」を参照
政府主導・日本資本導入による重工業化、近代的な経済システム導入、大量の開拓民による農業開発などの経済政策は成功を収め、急速な発展を遂げるが、日中戦争(日華事変)による経済的負担、そしてその影響によるインフレーションは、満洲国体制に対する満洲国民の不満の要因ともなった。政府の指導による計画経済が基本政策で、企業間競争を排するため、一業界につき一社を原則とした。
通貨
詳細は「満州国圓」を参照
法定通貨は満州中央銀行が発行した満州国圓(圓、yuan)で、1圓=10角=100分=1000厘だった。当時の中華民国や現在の中華人民共和国の通貨単位も圓(元、yuan)で同じだが、中華民国の通貨が「法幣」と呼ばれたのに対し、満洲国の通貨は「国幣」と呼ばれて区別された。当時の中華民国の銀圓・法幣(及び現在の人民元、台湾元、香港元)と同様、中国語では「圓」を「元」と略記していたが、満洲国内及び日本では満洲国の通貨を「圓」、中華民国の通貨を「元」と表記して区別した。
国幣は中華民国の通貨と同じく銀本位制でスタートし、現大洋(袁世凱弗、孫文弗と呼ばれた銀圓)と等価とされたが、1935年11月に日本円を基準とする管理通貨制度に移行した。このほか主要都市の満鉄付属地を中心に、関東州の法定通貨だった朝鮮銀行発行の朝鮮券も使用されていたが、1935年(昭和10年)11月4日に日本政府が「満洲国の国幣価値安定及幣制統一に関する件」を閣議決定したことにより、満洲国内で流通していた日本側銀行券は回収され、国幣に統一された。
満洲国崩壊後もソ連軍の占領下や国民政府の統治下で国幣は引き続き使用されたが、1947年に中華民国中央銀行が発行した東北九省流通券(東北流通券)に交換され、流通停止となった。
満洲国建国以前の貨幣制度は、きわめて混乱していた。すなわち銅本位の鋳貨(制銭、銅元)および紙幣(官帖、銅元票)、銀本位の鋳貨(大洋銭、小洋 銭、銀錠)および紙幣(大洋票、小洋票、過爐銀、私帖)があり、うち不換紙幣が少なくなかった。ほかに外国貨幣である円銀、墨銀、日本補助貨、日本銀行 券、金票(朝鮮銀行券)、鈔票(横浜正金銀行発行の円銀を基礎とした兌換券)などが流通し、購買力は一定せず、流通範囲は一様でなかった。満洲国建国直後 に満洲中央銀行が設立されるとともに旧紙幣の回収整理が開始され、1935年(康徳2年)8月末までにほとんどすべてが回収された。
こうして貨幣は国幣に統一され、鈔票の流通は関東州のみとなり、その額は小さく、金票は1935年(康徳2年)11月4日の満洲国幣対金円等値維持 に関する日満両国政府による声明以来、金票から国幣に換えられることが増えて、満鉄、関東州内郵便局および満洲国関係の諸会社の国幣払実施とあいまって国 幣の使用範囲は広がった。国幣は円単位で、純銀 23.91g の内容を有すると定められたが、本位貨幣が造られないためにいわば銀塊本位で、兌換の規定が無いために変則の制度であった。
貨幣は百圓、十圓、五圓、一圓、五角の紙幣、一角、五分、一分、五厘の鋳貨(硬貨)が発行され、紙幣は無制限法貨として通用された。紙幣は満洲中央 銀行が発行し、正貨準備として発行額に対して3割以上の金銀塊、確実な外国通貨、外国銀行に対する金銀預金を、保証準備として公債証書、政府の発行または 保証した手形、その他確実な証券または商業手形を保有すべきことが命じられた。後に鋳貨の代用として一角、五分の小額紙幣が発行された。
郵政事業
詳細は「満州国の郵便史」を参照
中華郵政が 行っていた郵便事業を1932年7月26日に接収し、同日「満洲国郵政」(帝政移行後は「満洲帝国郵政」)による郵政事業が開始された。中華郵政は満洲国 が発行した切手を無効としたため、1935年から1937年までの期間、中国本土との郵便物に添付するために国名表記を取り除き「郵政」表記のみとした「満華通郵切手」が発行されていた。
同郵政が満洲国崩壊までに発行した切手の種類は159を数え、記念切手[40]も多く発行した。日本との政治的つながりを宣伝する切手も多く、1935年の「皇帝訪日紀念」や1942年の「満洲国建国十周年紀念」・「新嘉坡(シンガポール)陥落紀念」・「大東亜戦争一周年紀念」などの記念切手は日本と同じテーマで切手を発行していた。
1944年の「日満共同体宣伝」のように、中国語の他に日本語も表記した切手もあった。郵便貯金事業も行っており、1941年には「貯金切手」も発行している。
満洲国で最後の発行となった郵便切手は、1945年5月2日に発行された満洲国皇帝の訓民詔書10周年を記念する切手である。予定ではその後、戦闘機3機を購入するための寄附金付切手が発行を計画されていたが、満洲国崩壊のために発行中止となり大半が廃棄処分になった。だが第二次世界大戦後、満洲に進駐したソ連軍により一部が流出し、市場で流通している。
南満洲鉄道
日本の半官半民の国策会社南満州鉄道(満鉄)は、ロシアが敷設した鉄道を日露戦争において日本が獲得して設立されたが、満洲国の成立後は特に満洲国の経済発展に大きな役割を果たした。
同社は満洲国内における鉄道経営を中心に、フラッグ・キャリアの満州航空、炭鉱開発、製鉄業、港湾、農林、牧畜に加えてホテル、図書館、学校などのインフラストラクチャー整備も行った。
外国企業
三井や三菱などの財閥系企業をはじめとする多くの日本企業が進出したほか、国交樹立していたドイツやイタリアの企業であるテレフンケンやボッシュおよびフィアットも進出していた。
さらに国交のないアメリカの大企業であるフォード・モーターやゼネラルモータースおよびクライスラーやジェネラル・エレクトリック等、イギリスの香港上海銀行なども進出していた。これらのアメリカやイギリス企業の多くは、1941年7月に日英米関係が悪化するまで企業活動を続けていた。
満蒙開拓移民
満洲国の成立以降、日本政府は国内における貧困農村の集落住民や都市部の農業就業希望者を中心に、「満蒙開拓移民団」と称する移民組織を大々的に募集し最終的に22万人の日本人を満洲に送った(内地応召のため実数はこれより4万人ほど少ない)。この政策は、世界恐慌や凶作で経済が疲弊した日本国内から消費人口を減らす、いわば国家レベルでの「口減らし」という側面をもつ一方、徐々に世界から孤立し戦時体制へと歩んでいく日本への食料供給基地として、この開拓団に満洲を農地として開拓させることも意図していた。
「外国」の満洲へ移住した開拓団員たちも、開拓移民団という日本人コミュニティの中で生活していたことに加え、渡満後もみな日本国籍のままであった。そのため、「自分たちは住む土地が変わっても日本人」という意識が強く、現地の住民たちと交流することはあっても「満洲国人」として同化することはまずなかった。
満蒙開拓移民団の入植地の確保にあたっては、まず匪情悪化を理由に既存の農村を「無人地帯」に指定し、地元農民を新たに設定した「集団部落」へ強制 移住させるとともに、政府がこれらの無人地帯を安価で強制的に買い上げて、日本人開拓移民を入植させることが行われた。地元農民は自らの耕作地を取り上げ られる強制移住に抵抗したため、関東軍が出動することもあった。「集団部落」反日組織との接触を断つために、地元住民を囲い込む形で建設された。
このため地元住人たちの中には、日本人開拓移民団を自分たちの生活基盤を奪った存在としてあからさまに敵視する者が少なからずおり、開拓移民団員と の対立やトラブルに発展するケースもしばしば存在し、抗日ゲリラの拡大につながった。これらは、後のソ連参戦時に開拓移民団員が現地人たちに襲撃される伏 線となってゆく。
満洲は広大な領域の約1/4が耕作可能地であり満洲国建国時点でその半分が耕作されていた。作物は大豆が多く、北部と南部では気候条件が異なり作付 状況は違った。北部は大豆、粟、高粱、小麦の順で生産量が多く、南部にいくほど高粱の割合がふえ南満洲では高粱、大豆、粟の順となっていた。米作は陸稲で あったが気候条件があわず南部で小規模に栽培される程度であった。その他野菜・果樹栽培なども行われた[41]とされる。
あへん栽培
「アヘン#日本におけるアヘン史」も参照
日本はあへん専売制と漸禁政策を採用しており、満洲地域でもあへん栽培は実施されていた。名目上はモルヒネ原料としての薬事処方方原料の栽培であるが、これらあへん栽培が馬賊の資金源や関東軍の工作資金に流用され、上海などで売りさばかれた。