ハル・ノート

 

ハル・ノート(Hull note)は、太平洋戦争開戦直前の日米交渉において、1941年11月26日にアメリカ側から日本側に提示された交渉文書である。正式にはアメリカ合衆国と日本国の間の協定で提案された基礎の概要(Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan、日米協定基礎概要案)と称する。

日米交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官の名前からこのように呼ばれている。

ハル・ノートはしばしば、日米交渉におけるアメリカ側の最後通牒であると説明されることがあるが、実際には最後通牒として必要な交渉期限等の記述は一切存在せず[注釈 1]、また冒頭部には試案かつ法的拘束力が無い旨の注釈がつけられているため[注釈 2]、外交文書としては、最後通牒の条件を満たしていない[1]。また、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、ハル・ノート提示後にも昭和天皇に宛てて、事態の平和的解決を呼びかける親電を発しており[2]、アメリカ側から交渉を打ち切る意図があったことも確認されていない(親電については後述する)。

しかし、この文書が日米交渉の最終局面で手交されたもので、日本側の案(乙案)の拒否と同時に提示されたこと、かつ内容が日本側にとって受け入れがたいものであったため、その点をもって「”事実上の”最後通牒であった」とする解釈がある。後述の日本側の反応にある通り、当時の日本ではハル・ノートをそのように解釈した一面がある。

前段

Strictly confidential, tentative and without commitment

極秘文書。試案にして法的拘束力無し。

November 26, 1941.

1941年11月26日。

Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan

日米協定として提案する基本方針の概略

Section I

第一項

Draft Mutual Declaration of Policy

共同宣言の方針案

一切ノ国家ノ領土保全及主権ノ不可侵原則
他ノ諸国ノ国内問題ニ対スル不関与ノ原則
通商上ノ機会及待遇ノ平等ヲ含ム平等原則
紛争ノ防止及平和的解決並ニ平和的方法及手続ニ依ル国際情勢改善ノ為メ国際協力及国際調停尊據ノ原則

(いわゆるハル四原則と呼ばれるもの)

以下第一項略
第二項概略

ハル・ノートは、日米交渉において日本側の当事者野村吉三郎駐米大使と来栖三郎特命大使が提示した日本側の最終打開案(乙案)に対する拒否の回答と同時に、アメリカ側から提示された交渉案である。『機密戦争日誌』には野村大使の報告に先駆けて打電された在米武官からの要旨報告電報が次のように記されている。「果然、米武官より来電、米文書を以て回答す、全く絶望なりと。曰く1四原則の無条件承認 2支那及仏印よりの全面撤兵 3国民政府(汪兆銘政権)の否認 4三国同盟の空文化」「米の回答全く高圧的なり。而して意図極めて明確、九カ国条約の再確認是なり。対極東政策に何等変更を加ふるの誠意全くなし。交渉は勿論決裂なり。之にて帝国の開戦決意は踏み切り容易となれり。」

概要は以下の10項目から成る。

イギリス・中国・日本・オランダ・ソ連・タイ・アメリカ間の多辺的不可侵条約の提案
仏印(フランス領インドシナ) の領土主権尊重、仏印との貿易及び通商における平等待遇の確保
日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵
日米がアメリカの支援する蒋介石政権(中国国民党政府)以外のいかなる政府を認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否認)
英国または諸国の中国大陸における海外租界と関連権益を含む1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力
最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始
アメリカによる日本の資産凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結の解除
円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立
第三国との太平洋地域における平和維持に反する協定の廃棄 – 日独伊三国軍事同盟の実質廃棄を含意する、と日本側は捉えていたようである。
本協定内容の両国による推進

ウィキソースにハル・ノートの原文があります。

原文の和訳はウィキソース参照。英語原文は英語版ウィキペディア「Hull note」のページを参照

提示までの経緯

日米交渉は1941年4月から始まったが双方の一致点がなかなか見いだせずにいた。7月に日本軍の南部仏印進駐が行われると、アメリカは対日資産を凍結し、8月には石油の全面禁輸に踏み切った。これにより日米関係が危機的状況を迎える中、10月18日に成立した東条内閣は戦争決意の下に作戦準備を進めると共に外交を継続することとし、甲案、乙案による対米交渉を行うことにした。

11月10日、日米交渉において、日本側は以下の内容の甲案による交渉を開始した。

通商無差別問題に関しては、日本は無差別原則が、全世界に適用されるにおいては、太平洋全域、即ち中国においても、本原則の行われることを承認する
三国同盟問題に関しては、日本は自衛権の解釈をみだりに拡大する意図なきことを明瞭にする。同盟条約の解釈及び履行は日本の自ら決定するところにより行動する
撤兵問題に関しては、(A)中国においては華北・内蒙古の一定地域、並びに海南島には日中和平成立後所要期間駐兵、その他の軍隊は日中間協定により2年以内に撤兵。所要期間について米側から質問があった場合、概ね25年を目処とする旨をもって応酬すること。(B)日本は仏印の領土主権を尊重する。仏印からは、日中和平成立又は太平洋地域の公正な平和確立後撤兵
ハル四原則に関しては、日米間の正式妥結事項に含めることは極力回避する

(参考『太平洋戦争外交史』)

東郷外相から野村大使にあてた公電七二六号によると「要之甲案は懸案三問題[注釈 3]中二問題に関しては全面的に米国の主張を受諾せるものにして、最後の一点たる駐兵及び撤兵問題に付ても最大限の譲歩を為せる次第なり」とある(ただし、「撤兵を建前とし駐兵を例外とする方米側の希望に副ふべきも…国内的に不可能[注釈 4]」であるとも記されている)。

しかし、アメリカ側の納得が得られず甲案交渉が不調に終わると、11月20日、日本側は以下の内容の乙案を提示した[注釈 5]。公電七二七号によると乙案は「若し米国に於いて甲案に著しき難色を示すときは、事態切迫し遷延を許さざる情勢に鑑み、何等かの代案を急速成立せしめ、以て事の発するを未然に防止する必要ありとの見地より案出せる第二案である」と説明され、甲案の懸案三問題は棚上げされている。

日米は仏印以外の東南アジア及び太平洋諸地域に武力進出を行わない
日本は日中和平成立又は太平洋地域の公正な平和確立後、仏印から撤兵。本協定成立後、日本は南部仏印駐留の兵力を北部仏印に移動させる用意があることを宣す
日米は蘭印(オランダ領東インド)において必要資源を得られるよう協力する
日米は通商関係を資産凍結前に復帰する。米は所要の石油を日本に供給する
米は日中両国の和平に関する努力に支障を与えるような行動を慎む

乙案についてハルは第5項(援蒋の停止を意味する)に強い難色を示した[注釈 6]。アメリカはドイツのとどまるところを知らない武力拡張政策に対抗してイギリスを援助している、援英政策が打ち切り困難なのと同じように「日本の政策が確然と平和政策に向かい居ることが、明確に了解せらるるに至らざる限り、援蒋政策を変更すること困難」であると述べた[3]。

11月24日、ワシントンでの交渉と並行して東京で行われていた東郷外相とジョセフ・グルー駐日アメリカ大使との会談において、東郷は南部仏印駐留の兵力を北部仏印に移動させることが日本にとって最大限の譲歩であると説明し、乙案第5項についてはアメリカの橋渡しで日中和平交渉が開始されれば、援蒋政策は不要になるではないか、という論法で理解を求めた[4]。

これに先立ってアメリカ側ではハル・ノートの原案(甲案に相当)と暫定協定案(乙案に相当)の2通りの案を平行して検討していた。ハル・ノートの原案は、ヘンリー・モーゲンソー財務長官が18日にハルに示したものであり、それは更に彼の副官ハリー・ホワイトの作成によるものだった。暫定協定案が維持されていても同時にこの協議案が日本側に提示されていた可能性はある。ただし、中国については原案では明確に満洲を除くという記述があったなどの相違があり、ホワイト原案の原形をとどめぬ形でハル・ノートは提示された[5]。

アメリカ政府は日本の乙案に対し11月21日協議し、対案を示すこととした。暫定協定案の原案はそれ以前から検討されていたが、22日までに更に協議され以下の内容となった。

日本は南部仏印から撤兵し、かつ北部仏印の兵力を25,000人以下とする
日米両国の通商関係は資産凍結令(7月25日)以前の状態に戻す
この協定は3ヶ月間有効とする

暫定協定案は3ヶ月間の引き延ばしを意味しており、当時軍部が要望していた対日戦準備までの交渉による引き延ばしにかなった案である。ハルはイギリス、中国、オランダ、オーストラリアの大・公使に乙案と暫定協定案を説明し、乙案については第5項は全面的に容認できず、第2項と第4項はこのままでは受け入れられないという見解を示し[6]、対案として暫定協定案を提示することに支持を求めた。中国はこれに反発し、他の国の反応も消極的だった(ただし、最終的には中国以外の支持は得ている)。25日までこの暫定協定案が検討されており、最終決定された内容ではアメリカの貿易制限緩和措置に細かい規定が付され、日本が切望していた石油の供給については「民需用の石油」のみに限定された。

25日、ハルはヘンリー・スティムソン陸軍長官とフランク・ノックス海軍長官に暫定協定案の最終案を示した。スティムソンの日記には「彼(ハル)は今日か明日のうちに日本側に提案するつもりであった」「それは米国の利益を十分に保護したものであることを一読してすぐに知ったが、しかし、提案の内容はひじょうに激烈なものであるから、私には、日本がそれを受諾する機会はほとんどないと思われた」と記されている[7]。

しかし、おそらく26日早朝までに、ハル国務長官とルーズベルト大統領の協議によりこの案は放棄され、26日午後ハル・ノートが提示された。なぜ急に暫定協定案を放棄しハル・ノートを提示したかは現在、明確ではない。ルーズベルト大統領は、ホワイト作成のハル・ノートを日本に渡せと言った際、「我々は日本をして最初の一発を撃たせるのだ」と言ったという[8]。

ハルの日記は25日に中国からの抗議により暫定協定案を放棄したような記述となっている。ルーズベルトについては26日午前、スティムソン陸軍長官からの日本軍の船艇が台湾沖を南下しているという情報に際し「日本側の背信の証拠なのだから、全事態を変えるものだ」と言ったという。以上より、25日午後ないし26日早朝、ルーズベルトはスティムソン長官からの知らせを受け、日本は交渉を行いつつも軍の南下を行っていると受け取り、(後述するように戦争覚悟で)暫定協定案を放棄しハル・ノートを提示したと思われる。ただしこの情報は日本軍の特別な移動を伝えるものではない。
日本側の反応

ハル・ノートを受け取った野村・来栖両大使は一読の上逐条反駁を加えたが、ハル国務長官は多くを語らなかった。特に第二項の3及び4については、「全く出来ない相談にして、四の重慶政府承認の如き、米国が恰も支那即ち蒋政権を見殺しにするを得ずと称せらるるが如く、我国としては断じて南京政府を見殺しにするを得ずときっぱり言い切」り、「三国条約の問題に至りては米国は日本をして出来得るだけの譲歩を為さしめんことを希望せられつつある一方、支那問題に対しては殆ど当方をして重慶に謝罪せよと称せらるるに等」いもので、先日ルーズベルト大統領が日中和平の橋渡しをしたいと述べたのはまさかこのような趣旨だとは思わなかったと抗議した[9]。なお、両大使は翌日、本省に交渉打ち切りを表明するよう進言している。

東郷茂徳外相は日本側が最終案として提示した乙案が拒否され、ハル・ノートの内容にも失望し外交による解決を断念した。東郷は「自分は目もくらむばかりの失望に撃たれた」「長年に渉る日本の犠牲を無視し極東における大国たる地位を捨てよと言うのである、然しこれは日本の自殺に等しい」「この公文は日本に対して全面的屈服か戦争かを強要する以上の意義、即ち日本に対する挑戦状を突きつけたと見て差し支えないようである。少なくともタイムリミットのない最後通牒と云うべきは当然である」[10]と述べている。当時、東郷は中国の暗号を解読することでアメリカ側で日本の乙案よりも緩やかな暫定協定案が検討されている事を知っていた可能性が指摘されている[11]。東郷の失望はそうしたものも合わせたものとも考えられる。

東郷から相談を受けた佐藤尚武(当時、外務省顧問)は「たとえハル・ノートのようなものが来たからといって、絶望せずに何とか危機を脱する方法を見つけねばならぬと考え、前後三回にわたり、茂徳と、息詰まるような議論を交わした」[12]が、物別れに終わり顧問の職を辞している。

なお、ハル・ノートの前段には“Strictly Confidential, tentative and without commitment(極秘、試案にして拘束力なし)”との記述があり、ハルノートは試案であることが明記されている[注釈 7]。吉田茂もこの点に注目し「実際の腹の中はともかく外交文書の上では決して最後通牒ではなかったはず」と解釈している[13]。実際に吉田は東郷を訪ねた際、そのことを強調し、「私は少々乱暴だと思ったが、東郷君に向かって『君はこのことが聞き入れられなかったら、外務大臣を辞めるべきだ。君が辞職すれば閣議が停頓するばかりか、無分別な軍部も多少反省するだろう。それで死んだって男子の本懐ではないか』とまでいった」[14]という。

しかし、なぜ外務省が“tentative and without commitment”の箇所を削除して枢密院に提出したのか、外務省および東郷外相の真意は不明である[注釈 8](日本の国立公文書館の記録では“tentative and without commitment”の箇所は有り)。ただし、撤兵の項目(英文のオリジナルはThe Government of Japan will withdraw all military, naval, air and police forces from China and from Indochina)に、日本政府が翻訳時に「即時」という文言を付け加えたとするのは俗説に過ぎない[注釈 9]。東郷が昭和天皇に上奏した内容は明らかではないが、『木戸幸一日記』には11月28日の欄に「東郷外相参内米国の対案を説明言上す。形勢逆転なり」と記されている。

日本政府はハル・ノートを事実上の最後通牒であると受け取った。当時の日本は対米強硬派と交渉推進派がせめぎ合っており、11月5日の御前会議で「12月1日午前0時までに外交交渉が成立しなければ対米英蘭戦争に踏み切る」旨の帝国国策遂行要領が決定されていたが、ハル・ノートを提示されたことで外交交渉が絶望的になった。このため日本政府は「開戦やむなし」に傾いた。

東條英機首相は12月1日御前会議において、日米交渉に努力してきたが「米国は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず」「支那より無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の死文化を要求する等、新なる条件を追加し帝国の一方的譲歩を強要して参りました」と述べ、もし日本がこれに屈従すれば「帝国の権威を失墜し支那事変の完遂を期し得ざるのみならず、遂には帝国の存立をも危殆に陥らしむる結果と相成る」とし「米英蘭に対し開戦の已むなき」と説明した[15]。また東郷外相もハル・ノートに対して「通商問題及支那治外法権撤廃」[注釈 10]は容認できるとしたものの、他はいずれも同意できず「本提案は米側従来の諸提案に比し著しき退歩にして、且半歳を超ゆる交渉経緯を全然無視せる不当なるものと認めざるを得ぬ」「提案を基礎として此上交渉を持続するも、我が主張を充分に貫徹することは殆ど不可能というの外なし」と述べた[16]。

会議の結果、対米英蘭開戦が決議され、ハル・ノートが提示される以前に択捉島の単冠湾を出航していた機動部隊に向けて12月1日5時30分、真珠湾攻撃の命令が発せられた。『杉山メモ』には開戦の聖断を下した昭和天皇の様子が次のように記されている。「本日の会議に於いて、お上は説明に対し一々頷かれ、何等御不安の御様子を拝せず、御気色麗しきやに拝せられ、恐懼感激の至りなり」
アメリカ政府の意図

現在、ハル・ノートでアメリカ政府が何を意図していたか明確ではない。ハル国務長官はハル・ノートを野村・来栖両大使に渡す際には、難色を示す両大使に「何ら力ある反駁を示さず」、説明を加えず、ほとんど問答無用という雰囲気であり、投げやりな態度であった。

11月27日、両大使と会見したルーズベルト大統領は、態度は明朗だが案を再考する余地はまったくないように思われたという。ルーズベルトは「自分は今尚大いに平和を望み、希望を有している」と述べたが、野村の「今回の貴国側提案は日本を失望させる」との言に対しては、「自分も事態がここまでに至ったのはまことに失望している」と応じた。さらに「日本の南部仏印進駐により第一回の冷水を浴びせられ、今度はまた第二回の冷水(日本のタイ進駐の噂)の懸念もある」「ハルと貴大使の会談中、日本の指導者より何ら平和的な言葉を聞かなかったのは交渉を非常に困難にした」「暫定協定も日米両国の根本的主義方針が一致しない限り、一時的解決も結局無効に帰する」と述べた。同席していたハルも暫定協定が不成功になった理由を付言して「日本が仏印に増兵し、三国同盟を振りかざしつつ、米国に対して石油の供給を求めるのは、米国世論の承服せざる所である」と言い、日本の指導者が力による新秩序建設を主張したことを遺憾とした[17]。

なお、ハル・ノートの提示は陸海軍の長官にも知らされておらず、アメリカ議会に対しても十分説明されていない。

スティムソン陸軍長官は、真珠湾攻撃10日前の日記に、ルーズベルト大統領との会見時の発言として「我々にあまり危険を及ぼさずに、いかにして彼ら(=日本)を先制攻撃する立場に操縦すべきか。」と書いている[18]。また、日記によると、11月27日にはハルがスティムソン陸軍長官に対して「自分は日本との暫定協定を取りやめた。私はこのことから手を洗った。今や問題は貴方及びノックス海軍長官 即ち陸海軍の掌中にある」と伝えたとされる。同日、ルーズベルトはスティムソンに対して「日本は打ち切ったが、しかし、日本はハルの準備した立派な声明(ハル・ノート)によって打ち切ったのだ」と言ったという[19]。

さらにハルは翌28日の軍事評議会においてハル・ノートを説明した際、「日本との間に協定に達する可能性は事実上なくなった」と述べた。29日、ハルはイギリス大使に「日米関係の外交部面は事実上終了し、今や問題は陸海軍官憲の手に移ったこと、アメリカその他の太平洋関係諸国は、日本が突然不意に行動をとり、あらゆる態様の奇襲を行う可能性を算入せずして、抵抗計画を立てる事は重大な誤りであること」を述べ、オーストラリア公使の日米間の調停の申し出も、外交上の段階はすでに過ぎたと拒否している[20]。

その一方で、グルー大使は、吉田茂を介して東郷外相にハル・ノートが最後通牒でないことを説明したいと会談を申し入れたが、東郷はこれを拒否した[21](後に賀陽宮妃の葬儀でグルーは東郷に会ったが、「自分は甚だしく失望している」と告げられたという[22])。

米国側も日本との外交交渉を行う上で、事前にまとめていた日本に関する詳細なレポート(日本の内情に関するレポートや日清・日露戦争の経緯と経過、そして交渉が決裂した場合の日本側の行動予測などに関するレポート)と暗号解読機「マジック」による日本政府(外務省)の暗号電文の解読によって、日本政府が戦争に踏み切るだろうと事前に予測していた。アメリカは傍受電報から日本が交渉期限を11月25日まで(後に29日まで延長)としたことを掴んでおり(ハル曰く「日本はすでに戦争の車輪をまわしはじめている」[23])、ハルノート提示翌日には、太平洋艦隊及びアジア艦隊各司令官に対し「ここ数日内に日本が侵略的行動を採るものと予想される」として「戦争警告」が発せられている[24]。

ルーズベルトは暫定協定案でも日本が受諾する可能性はあまりないとイギリスに言っており、ハル・ノートが受諾される見込みはないと考えていただろう。しかし攻撃を受けた翌日、開戦を決議するための議会演説ではハル・ノート等により交渉を進めていたと演説をしている。

アメリカは、満州事変に対するスティムソン・ドクトリン、日中戦争に対する「隔離演説」など満州事変以後の日本の行動について承認しないことを表明し続けていた。ハル・ノートで要求した満州事変以後の既成事実の全面放棄は、実力による阻止行動を取って来なかった日本の行動についてその清算を求めたに過ぎないとも言える[25]。
満州国について

ハル・ノート第二項3の支那(中国)には満州国が含まれるかどうかがしばしば問題になる。しかし、当時の日本側では満州国はあまり問題にはなっておらず、12月1日の御前会議では原嘉道枢密院議長が質問したのみである。以下に原と東郷外相のやり取りを引用する。

原 特に米が重慶政権を盛り立てて全支那から撤兵せよといふ点に於て、米が支那といふ字句の中に満州国を含む意味なりや否や、此事を両大使は確かめられたかどうか、両大使は如何に了解して居られるかを伺い度い。

東郷 26日の会談(ハルノート提示時の野村・来栖-ハル会談)では唯今の御質問事項には触れて居りませぬ。然し、支那に満州国を含むや否やにつきましては、もともと4月16日米提案(日米諒解案)の中には満州国を承認するといふことがありますので、支那には之を含まぬわけでありますが、話が今度のように逆転して重慶政権を唯一の政権と認め汪兆銘政権を潰すといふ様に進んで来たことから考えますと、前言を否認するかも知れぬと思ひます[26]。

なお、撤兵問題における日本の主張は先述の甲案にあるように「中国においては華北・内蒙古の一定地域、並びに海南島には日中和平成立後所要期間(25年間)駐兵、その他の軍隊は日中間協定により2年以内に撤兵」である。満州国を除く中国からの全面撤兵を日本が容認していたわけではない。
ルーズベルト大統領の昭和天皇宛親電について

ハル・ノートで交渉が絶望的になってもなお開戦阻止の動きがあった。来栖大使は寺崎英成一等書記官を呼び、「こうなったら戦争を防ぎうるのは天皇陛下しかいない」「大統領から天皇に御親電を打ってもらうよう取り計らってもらいたい」と工作を依頼した[27]。 (ただし、親電を打つ案はアメリカ側にもあった。また、11月26日には野村・来栖両大使連名で乙案全ての通過は困難であることを報告するとともに、事態打開策としてルーズベルト大統領と昭和天皇の間で親電を交換して「空気を一新」する案を東郷外相に進言している)

12月6日、ルーズベルト大統領から昭和天皇に親電が発せられた。その趣旨は、もし日本軍が仏印から撤兵してもアメリカは同地に侵入する意図はない、周辺政府にも同様の保障を求める用意がある、南太平洋地域における平和のため仏印から撤兵してほしい。撤退した場合は日本との商取引を復活させるというものであった。ハル国務長官の原案では「日中の90日停戦、太平洋関係諸国の軍隊の移動禁止、在仏印日本軍の縮小、日中両国の和平交渉の開始」など既に放棄された暫定協定案の再現のような内容であったが[28]、ルーズベルトはこれを採用しなかった。親電を送ることについてのルーズベルトの真意は明らかではないが、ハルは「それを送ることは記録を作る目的以外にはその効果は疑わしい」[29]と否定的だった。→電報の全文ルーズベルト大統領の昭和天皇宛親電参照

親電は中央電信局で10時間留め置かれた上で昭和天皇に伝達された。12月8日の午前3時(ハワイ時間では午前7時半で真珠湾攻撃予定時刻の30分前)だった。 『昭和天皇独白録』には「この親電は非常に事務的なもので、首相か外相に宛てた様な内容であったから、黙殺出来たのは、不幸中の幸であつたと思ふ」とある。なお、親電について東郷は「此危局を救い得るものとは認め難い」とし、東条も「そういうものは何にも役立たぬではないか」と言ったとされるが[30]、戦後、連合国軍総司令部(GHQ)が外務省に対し、(伝達が遅れずに)「電報が天皇陛下に渡されたならば戦争は避けることができたに違いない」との見解を示していたことが2013年3月7日公開の外交文書で明らかになった。[31]
評価
関係者の評価

交渉にあたっていた来栖は「(ハル・ノートは)交渉の始めに戻った」点が多く、「乙案は受諾できないからさらに論議しよう」というものであったと回想している[32]。

野村はルーズベルト大統領とハル国務長官について、「米国の信条とする対外政策の諸原則に膠着し、一歩もその埒外に出ることなくgive and takeは少しもなかった」「両者とも非常に世論を顧慮する。これがけだしデモクラシーの正体であろう」と回想している[33]。

東郷外相は日米交渉の経過について、「日本の提出した要求の過大なることは勿論であるが、米国の態度が四月所謂日米諒解案の頃とは変調を見せ、六月末の提案を固執して些の譲歩をも示さず、殊に七月末資金凍結以来は極めて非妥協的で、只時日の遷延を図つて居るとしか思へなかつたことである。米のこの態度は交渉の決裂延いては戦争を辞せざるの決意なくしては執れないとの印象を強く受けたのである」と回想している。また、撤兵問題について「支那に於ける日本の駐兵が不都合であると言い乍ら、外蒙(現在のモンゴル国)に於けるソ連軍隊の駐在に抗議せざるは不公平である」としている[34]。

クレーギー駐日イギリス大使は、アメリカが暫定協定案を破棄し、ハル・ノートを手交したことについて「もし、暫定協定案について何らかの妥協が成立し、三ヵ月間の猶予期間が得られたとするならば、季節風の条件で日本軍のマレー上陸作戦は困難になっただろう。また独ソ戦の様相も変化する。対独潜水艦戦の成功といった新しい要素も加わり、日本政府が対米戦の決断に達することは極めて困難になるだろう」と批判している。なお、このクレーギーの報告書はチャーチルを激怒させた。「日本がアメリカを攻撃し、そのためアメリカが国を挙げて勇躍参戦してきたことはまさに天の恵みであった。大英帝国にとって、これ以上の幸運はそうざらにはない。日本の対米攻撃は、いずれが我が国の友であり敵であるかを、白日のもとにさらした」[35]

ハル国務長官は「私が一九四一年十一月二十六日に野村、来栖両大使に手渡した提案(十ヵ条の平和的解決案)は、この最後の段階になっても、日本の軍部が少しは常識をとりもどすこともあるかも知れない、というはかない希望をつないで交渉を継続しようとした誠実な努力であった。あとになって、特に日本が大きな敗北をこうむり出してから、日本の宣伝はこの十一月二十六日のわれわれの覚書をゆがめて最後通告だといいくるめようとした。これは全然うその口実をつかって国民をだまし、軍事的掠奪を支持させようとする日本一流のやり方であった」[36]と回想している。また、ハルは「ヨーロッパに戦争が勃発し、特にフランスが陥落してから、アメリカは日本とのすべての関係において2つの目的をもっていた。その一は平和であって、その二はもし平和がえられなければ、アメリカの防衛を準備するために時間を稼ぐことであった。アメリカは平和をかちとりえなかったが、無限の価値ある時間を稼いだ」「日本がもし六ヵ月早く真珠湾を攻撃していたならば、世界戦争の全貌が変っていたかも知れない」[37]としている。チャーチルも1941年12月26日アメリカ上下両院合同会議における演説で同様のことを述べている。「もしドイツが一九四〇年六月フランス崩壊後にイギリス本土侵入を企て、またもし日本がそれと同じ時期に、イギリス帝国とアメリカに宣戦したとすれば、われわれの運命がどんなに災厄と苦悶とであっただろうことは、何人も知りえない」[38]
様々な評価
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現在でも「ハル・ノートにより日本は対米開戦を余儀なくされた。ハル・ノートは最後通牒である。」と批評するものは多く、これは日本人の書いた多数の歴史書がハル・ノートの存在を強調し、NHKの番組でもここが歴史の転換点であったかのように描く事から確認できる。日本は多大な挑発に対抗する強い意志があり、戦争の維持のため南方に進出したが、国民党を通しての中国大陸の権益拡大を目論むアメリカ、そしてそこでの権益を失うことを恐れるイギリス等による経済制裁によって石油などを禁輸されてしまい、戦略資源の窮乏による国家的危機を迎えた。日本にはまだ外交交渉による平和維持の意志があったが、アメリカの全ての中国権益を放棄せよという強硬な対日要求によりやむなく開戦に至ったと考えている。この解釈は帝国主義が大国の常識であった当時において、仏印進駐は中国侵攻を維持するための行為であり、むしろアメリカの対日禁輸政策が日本のアジアでの権利を犯す行為であるとするもので、大東亜戦争は自衛の為の戦争であるという考え方の背景にもなっている。

一方、ハル・ノートにかかわりなく、基本的に日本が11月15日の御前会議で決定された国家方針により戦争を開始したのであり、ハル・ノートは外交交渉上の一案にすぎず、大きな意味はないとする批評も存在している。日本の教科書でもハル・ノートに触れていないものもある。アメリカ側から見ればハル・ノートの中国からの撤兵など厳しい対日要求も、アメリカのアジアでの基本政策の確認にすぎず、ここから交渉すべきものであり問題にはならない。ここにはそれまでの交渉経緯や、日本が11月末で外交交渉を打ち切ろうとしている時期に交渉困難な案が軍事行動を促す可能性への考慮はない。そこではあくまで日本が先に軍事行動を行ったことが問題にされる。秦郁彦は11月26日に既に機動部隊が出航していることを重視し、ハル・ノートにかかわりなく既に日本は対米開戦の意志を持っていると見なしている。また、同年9月の帝国国策遂行要領を天皇は拒否したが、陸海軍首脳部はこの時点で開戦を決心したと見ることもでき、9月以降、参謀本部命令で南方各地の兵要地誌の収集と各在留邦人との接触や、まだ研究訓練段階であった落下傘部隊を早急に戦力化するよう督促している。(「大陸指924号」(昭和16年8月12日発)では南部仏印進駐後、ジャングルにおける戦闘や機械化部隊の長距離行軍の訓練、橋梁の修理などの研究、上陸作戦の研究が指示された。「大陸命557号」(昭和16年11月6日発)では香港攻略の準備を、「大陸命558号」「(空白)」の攻略を(自衛戦闘は許可されている)、「大陸命559号」では船舶の準備に関して、大陸命569号では支那派遣軍の一部部隊を南海支隊への編入など)

ちなみに近年では、ハルノートで言うところの「中国」には“満州は含まれていない”とする研究結果が出ている。 『11月になり東条内閣が成立し、東郷茂徳が外相となった。天皇の意向もあり東条内閣も日米交渉には最後まで外交的努力をすることとなり、最後の提案というべき甲案・乙案を用意し、また来栖三郎大使を野村の補佐として派遣した。日本の暗号電報をすべて解読していたアメリカ側は、このままでは戦争になると危惧し、国務省は日本への対案として3ヵ月休戦の暫定協定案を作った。これはかなり妥協的な案であり、戦後東京裁判でこれを見せられた東条英機は、これがくればと絶句したと伝えられている。しかしアメリカはこれを手渡すことなく、結局強硬な原則を示した。いわゆるハル・ノートを寄こした。

11月26日にこれを見た、さしもの和平派であった東郷も、これは日本の国家的な自殺を要求するものとして絶望感にとらわれ、御前会議でも日米開戦やむなしとの結論になったのである。日本がハル・ノートを絶対に受け入れられないと感じたのは、満州をも含む全中国大陸からの撤兵を要求し、実質的に満州国の放棄を要求していると解釈したからである。現在でもこのことを信じている人達が大部分である。だがここにまた重大な錯覚があった。アメリカ側の研究者から近年、ハル・ノートの中国には満州は含まれていなかったとの説が出された。これは悲劇的な誤解であったというのである。日本側がほぼ全員といってよいほど「満州を含む全中国からの撤兵」と解釈しているのとくらべると大きな違いである。たしかに現在ハル・ノートを読んでみれば、満州を含むなどとはどこにも書いてない。思い込みとは恐ろしい。』 (京都産業大学教授 ・須藤眞志「『錯覚』この恐るべきもの」より)

こうしたアメリカ側の立場から見れば、多くの日本人の歴史認識は「アメリカにより開戦を強いられた」という「広義の陰謀論者」[39]となる。スティネットらの主張する陰謀説はルーズベルト大統領が事前に真珠湾攻撃を知っていたとする「狭議の陰謀論」だが、それはアメリカを対ドイツ戦争に引き入れるための大きな計画のための方策であり、彼ら陰謀論者と言われるアメリカ側も日本の多数派と同じ批評をしている。このようにハル・ノートの批評はどんな事実があったかという問題と共に、戦争における対立する両国の立場を反映している。

条項を読めばわかるとおり、アメリカ側は提案をするだけで平和条約締結の約束はしておらず(具体的には日本と戦争中であった中国を含む包括的な条約であるため実現性が無い)、また、貿易条約再締結の交渉を始めるだけといったほぼ白紙に近い条件であった。一方で日本には、直ちに全ての軍事同盟を破棄させ、海外における権益の全てと、実質上、領土の3分の1を放棄させるという、極めて厳しい条件であった(原文参照のこと)。特に当時の日本政府が受け入れがたい条項と問題視したのが、上記項目3,4,9であり、これらの項目に関しての両国の争いが日米開戦のきっかけとなったと言えよう。

日本側からみれば、それまでの交渉経緯で譲歩を示したとの認識であったことが、ハル・ノートでの中国に関する非妥協的提案が、態度を硬化させる一因であるともいわれる。後の東京裁判で、弁護人ベン・ブルース・ブレイクニーは、「もし、ハル・ノートのような物を突きつけられたら、ルクセンブルクのような小国も武器を取り、アメリカと戦っただろう。」と日本を弁護している(また、判事であった、ラダ・ビノード・パールも後に引用している[40])。

ただ、ハル自身はもっと穏健な提案を想定していたが、ルーズベルトの意向もあり、急遽より強硬なものに作り変えたため、ハルはこの提案を自身の意に反しており芳しく思っていなかったと後に述べている。また、米国政権はアメリカ人の交渉の常として、最初に強硬案を示し、そこから相手側の譲歩を引き出すという手段をとったものと考えられている。このことから、ハル・ノートが太平洋戦争の一つの直接の引き金となったことは、日米の文化(あるいは国際認識)が衝突した典型例と言う者もある。ただ、日本の防衛上(石油の残量[41])、日本側が一から交渉を続けようとしたとしても、日米首脳会談(近衛文麿企画)の例に見られる様に、米国が誠意を持った態度で交渉に臨むとは限らず、ただ米国の戦争準備を助けるだけの交渉で終わってしまった可能性もあり、実際にどうなったかは不明である。実際、ハルが提示しようとした穏健案も時間稼ぎを前提としたものであったことから、日本側の内情とアメリカ側の態度、そしてドイツとイギリス、中国との関係からどのように推移したかはわからない。

また、ヨーロッパでは、ネヴィル・チェンバレン英国首相の宥和政策によってアドルフ・ヒトラーの台頭を許したと考えられたこともあり、アメリカ内での宥和政策に対する反発が高まっていたためだともされる。
批評

『詳説 日本史(日本史B、改訂版)』山川出版社(2006年文部科学省検定済、2007年発行、日本の高校日本史教科書)
「〔1941年(昭和16年)〕9月6日の御前会議は、日米交渉の期限を10月上旬と区切り、交渉が成功しなければ対米(およびイギリス・オランダ)開戦にふみ切るという帝国国策遂行要領を決定した。・・・木戸幸一内大臣は、9月6日の御前会議決定の白紙還元を条件として東条陸相を後継首相に推挙し<注1>、首相が陸相・内相を兼任する形で東条英機内閣が成立した。新内閣は9月6日の決定を再検討して、当面日米交渉を継続させた。しかし、11月26日のアメリカ側の提案(ハル=ノート)は、中国・仏印からの全面的無条件撤退、満州国・汪兆銘政権の否認、日独伊三国同盟の実質的廃棄など、満州事変以前の状態への復帰を要求する最後通告に等しいものだったので、交渉成立は絶望的になった。12月1日の御前会議は対米交渉を不成功と判断し、米英に対する開戦を最終的に決定した。12月8日、日本陸軍が英領マレー半島に奇襲上陸し、日本海軍がハワイ真珠湾を奇襲攻撃した。日本はアメリカ・イギリスに宣戦を布告し<注2>、第二次世界大戦の重要な一環をなす太平洋戦争<注3>が開始された。」

<注1>:最後の元老である西園寺公望が死去し、以後の後継首相選定は木戸幸一内大臣(木戸孝允の孫)を中心に、首相経験者らで構成される重臣会議の合議の形がとられた。
<注2>:アメリカに対する事実上の宣戦布告である交渉打ち切り通告は、在米日本大使館の不手際もあり、真珠湾攻撃開始後にずれ込んだ。その結果、アメリカ世論は「リメンバー・パール・ハーバー」(真珠湾を忘れるな)との標語のもとに一致し、日本に対する激しい敵愾心に火がついた形となった。カリフォルニア州をはじめ、西海岸諸州に住む12万313人の日系アメリカ人が各地の強制収容所に収容された。ドイツ系・イタリア系のアメリカ人に対しては、こうした措置はとられなかった。アメリカ政府は、1988年になって、収容者に対する謝罪と補償をおこなった。
<注3>:対米開戦ののち、政府は「支那事変」(日中戦争)をふくめた目下の戦争を「大東亜戦争」とよぶことに決定し、敗戦までこの名称が用いられた。

中村粲『大東亜戦争への道』展転社(1991年)
「ハル・ノートはそれまでの交渉経過を無視した全く唐突なものだった。日本への挑戦状でありタイムリミットなき最後通牒であると東郷が評したのも極論とは言えまい」
「この提案の中にはいささかの妥協や譲歩も含まれておらず、ハルもルーズベルトも日本がこれを拒否するであろうことは十二分に承知していた」
「ルーズベルトは対日戦争を策謀していた、11/25の会議で議題としたのは和平ではなく、戦争をいかにして開始するかの問題だった」

ハーバート・ファイス『真珠湾への道』みすず書房(原著刊行1950年)
「米国のこの提案(ハル・ノート)に述べられている極東の政治的・社会的秩序は、日本がこれまで夢みてきたものと真っ向から衝突するものであった。米国の構想は、相互の独立と安全を尊重し、相互に平等な立場で相接し通商を行う秩序ある平等の諸国家間の国際的社会であった。日本の構想は、日本が極東の安定的中心となるというのである。(中略)米国の提案は、日本が戦略や武力で実施しようとした右のような一切のことを拒否しようとするものであった。」
「しかしそれにしても、この米国の提案を最後通牒と見なすのは、政治的にも軍事的にも妥当ではないように筆者には考えられる。」
「米国の提案に同意してその政策を転換する。南・北いずれにもこれ以上武力進出は行わないが中国における戦争は極力これを続ける、軍隊の撤収を開始してこれに対し中国・米国・英国から如何なる反応があるかを待ってみる、あくまで勝利をうるための政策を強行する、というのが日本に許された四つの手段であった。日本はこの最後の方法を選んだ。」
一方、日本の乙案に対するハルの評価(「日本の提案を受諾することによって米国が負う義務は全く降伏に等しいものであった」)については、「ハルのこの判断の若干の点については多少の疑問がないことはなかった。ハルが提案乙の若干の項目について読み取った意味は、必ずしも正しい解釈であったかどうかは確かでない。また日本が後退を開始すると申し出たことについてのハルの全体的推定が正しかったかどうかも確かではない」[42]と疑問を呈している。しかし、米国が乙案に同意したとしても「日・米両国が行なっている軍事行動について必ず紛議がおこったであろう」「石油についての紛議が重大化して協定を危うくするであろう」として、「太平洋における戦争は避けられなかっただろう」としている。

『アメリカンページェント共和国の歴史 The American Pageant』(2002年版、アメリカの高校歴史教科書[43])
「日本との最後の緊迫した交渉が1941年11月から12月初めにワシントンで行われた。国務省は日本の中国からの撤退を主張し、限られた規模での貿易再開を申し出た。日本の帝国主義者は面子を失うことを恐れ同意せず、アメリカに屈従するか、中国での侵略を続けるかの選択に迫られ、剣を選んだ。」
「攻撃は東京が意図的にワシントンで交渉を長引かせている間に真珠湾で行われた」

J・プリチャード 他『トータル・ウォー 第二次世界大戦の原因と経過』河出書房新社(原著刊行1972年)
「(日米開戦は)米国が加えた対日経済制裁と、適度の強さ・柔軟性・想像力で外交交渉を行うのに米国が失敗したため必然的に生じた結果」
「日本人と同じく、力づくでなければ通じないと思いこんだ米国は交渉への取り組みが異常なほどかたくなで、日本が納得しうる妥協を切望しているのを判断し損なった」
「米国が中国の陳情とチャーチルの言葉通りにすると、真の暫定協定の可能性も消えた、日本はこれ以上の話し合いは全く無益であると悟った」

ジョージ・ケナン『アメリカ外交の基本問題』岩波書店(1965年)
「もしハルが、東アジアの政治的現実にもっと関心を示し、さらに他国民もすぐれて法律的かつ道徳的な原理にたいし口先だけでも好意をしめすべきだということにハル自身があまり執着しなかったら、太平洋戦争はたぶん避けえたろうと思われる」
「しかしながら、アメリカ国民はこの事実を当時も理解しなかったし、現在にいたるまで理解していない。自分たちは攻撃され挑発された、したがって防御しなければならない、だからこの戦争の目的は自分たちを攻撃した勢力を打倒することにある。こういう単純な印象のもとにアメリカ国民は太平洋戦争に乗りこんでいったのである。それで彼らは本当のところ、自分たちが何のために戦っているかについて、第一次大戦や第二次大戦のヨーロッパ戦線の戦争目的以上に明確な目的を持ちえなかったのである」

大杉一雄『日米開戦への道(下)』講談社(2008年/原本『真珠湾への道』講談社(2003年))
「ハル・ノートの性格は、基本的に米国六月二十一日案および十月二日案の延長線上にあり、その反復にすぎず、原理原則論から一歩も譲歩していないということである。その理念は米国が構想した戦後の自由主義国際体制の素案であり、…その理念は日本軍部ですら否定できないものが含まれており、…」
「問題は、日本が要求している現実的処理方法に、なぜ配慮してくれないのかということであった。撤兵問題(文面上「即時」「無条件」という語はなく、ハルも「即時実現」を主張しているものではないと説明している)も二ヵ所の駐兵要求のうち一ヵ所(たとえば華北・内蒙)だけでも認めてくれれば、日本の譲歩は、期間の点を含めて、十分あり得ただろう。」
「とにかく米国が相手のプレステージに配慮しようという姿勢はまったく認められなかった」

森山優『日本は何故開戦に踏み切ったか「両論併記」と「非決定」』新潮社(2012年)
「日本側は、ハル・ノートをアメリカが日本に突き付けた「条件」と解釈した。中国・仏印からの撤兵にしろ、無差別原則の適用にしろ、例外なしに実現を迫っているように読めるからである。それは、お互いの条件のすりあわせをはかる外交交渉からの常道から懸け離れていた。」
「日本側が衝撃を受けたのは、第一にその唐突さと不可解さであった。それを補う役割を担うはずだったのが、暫定協定案であった。もし暫定協定案が付随していれば、ハル・ノートが即座に日本に実行を迫るものではなく、未来に向けて提言された原則論であることが、比較的正確に理解されて筈だからである。(中略)暫定協定案がはずされたことで、際立ったのはアメリカの頑な態度と交渉放棄の姿勢だった」
「しかし、将来構想としても、日本側が全てを鵜呑みにすることは不可能であろう。陸軍とアメリカという強大な敵の狭間で二正面作戦を強いられていた東郷が条件闘争を展開するには、ハル・ノートはあまりに不寛容であった。」

細谷千博、佐藤元英『発掘 日米交渉秘録 戦争回避の機会は二度潰えた』(中央公論2007年12月号所収)中央公論社
佐藤「日米トップ会談や、「乙案」あるいはアメリカの「暫定協定案」には、交渉妥結の可能性があったのではないか。(中略)ハルやホーンベックなど国務省の問題になるのでしょうか。」
細谷「戦争を回避する機会が昭和十六年の八月以降もまだあったということです。しかし、国務省、特にハルやホーンベックらの反対によって、小さいながらも残されていた戦争回避の機会を失ったことは遺憾と言わざるを得ません。ハル・ノートは、日本に仏印や中国からの全面撤兵と汪兆銘政権の否認を求め、日本の「新秩序外交」の全面的否定を明らかにし、いわば日本に満洲事変前に戻ることを求めた厳しい内容であり、日本にとって受け入れがたいものでした。」
「もとより、一九三〇年代、日米戦争に向けての歴史の潮流を推し進めていったのは、日本の中国大陸に対する侵略政策であり、あるいは「東亜新秩序」建設を目指した日本の外交です。(中略)このことを前提としても、ここで考察した時期のアメリカ国務省の対応ぶりにも問題があったことを指摘せざるを得ないのです。」

作成に関与した国々

アメリカは、中国での権益を確保するため、以前から日本と紛争状態にあった中国の蒋介石政権に多大な軍事援助を送っていた。さらに日本軍の仏印進駐を問題視したアメリカが、国内の日本資産凍結、石油等の対日禁輸といった制裁に踏み切ったことにより、日米間は一気に緊張を高めた。また日米双方の外交担当者は、戦争以外の解決を探って日米交渉を約7ヶ月にわたって続けていた。交渉の背景として、当時の日米両国ともに国内世論が強硬派・穏健派に分かれ、双方の政治的綱引きがあった。

この交渉に対する働きかけとして、アメリカ側に対して、アメリカ参戦を希望する国民党や英国の影響力が及んでいたことが指摘されている。
中国の思惑・影響力

軍事的な問題で一時は妥協的案の提案に傾きかけたハル国務長官だが、支那事変の当事者である国民政府の蒋介石政権は「日米妥協」は米国の中国支援の妨げとなるとして公然と反対していた。当時既にアメリカは非公式ではあるが国民政府に対して軍事支援を行っていた。なお蒋介石夫人の宋美齢も自身の英語力を生かしてロビイストとしてルーズベルトにさまざまな手段で働きかけていた。
英国チャーチルの思惑

また当時は既にドイツとイギリスとの戦いが始まっており、ヨーロッパ戦線にて対独戦に苦戦していた英国チャーチル首相は、戦局打開の策としてアメリカの参戦を切望していた。英国は暫定協定案に対してはやむなく賛成する電報を送ったが、反対であったのは明らかで他に公開されていない電報が存在する。またその他の働きかけは判然としていないが、チャーチルの回想録では日米開戦の知らせを受け取ったときのチャーチルの喜びぶりが描かれている[44] 。ただし、日米開戦が即アメリカのヨーロッパ戦線への参戦となるわけではない。独ソ戦に日本が参戦しなかったように、日独伊三国軍事同盟の規定では、加盟国側から仕掛けた戦争に関しては他の加盟国の援助義務は発生しない。アメリカがヨーロッパ・アフリカ戦に参加することとなったのは、真珠湾攻撃を知ったナチス・ドイツのヒトラーがアメリカに対して宣戦布告を行ったからである。
ソ連の思惑

独ソ戦を戦っていたソ連のスターリンにとっての悪夢は、ドイツと三国同盟を結んでいる日本が背後からソ連を攻撃することであった。当時、2面作戦をとる国力に欠いたソ連は、日本からの攻撃があるとドイツとの戦線も持ちこたえられずに国家存続の危機に陥ると考え、日本の目をソ連からそらせるためのあらゆる手を打った。米国に親ソ・共産主義者を中心に諜報組織網を築き、その一端はホワイトハウスの中枢にも及んだ。その最重要人物がハル・ノートの原案を作成したハリー・ホワイト財務次官補である。日本を米国と戦わせることにより、日本がソ連に侵攻する脅威を取り除くことが一つの目的であった。

日本側にはリヒャルト・ゾルゲや尾崎秀実を中心とする諜報組織網を築き、日本の目がソ連に向いていないかと関東軍特種演習などの情報を収集し、報告し続けた。
その他

日本外交暗号の解読、日本兵を載せた船がインドシナに向かったとの誤報、日本側の攻勢準備行動の露呈があり、これらが決定打となってルーズベルトがハルに対し、日本により厳しい案を通知するよう指示したと言われている。これに関連して、インドシナに関する誤報は米海軍が意図的に事実と異なる報告を大統領にしていたという説がある。
注釈

^ 最後通牒には、条件と期限が示されており、提示した条件が指定された期限までに受け入れられなかった場合、交渉の打ち切りを明示する。これが「最後」の所以となる。
^ 「Strictly Confidential, tentative and without commitment」がそれにあたる。
^ 通商無差別問題、三国同盟問題、中国からの撤兵問題を指し、日米交渉の三難点と言われた。特に撤兵問題は交渉の最大難関とされた。
^ 従来の交渉では、日本は駐兵期間を明示してこなかった。このため東郷外相は駐兵期間を5年とすることを主張した。しかし、陸軍参謀本部が「期限付駐兵は支那事変の成果を喪失させる」と強硬に主張するなど反対論が多く、結局、甲案は駐兵期間を25年とすることで成立したという経緯があった。
^ 乙案には複数のバージョンがあるが、実際にアメリカに提示されたのはこの通りである。本省指示では第5項にあった仏印からの撤兵の項目を、野村・来栖の独断で第2項に移動させている(森山優『日本は何故開戦に踏み切ったか』を参考に記す)。
^ この項目は外務省の乙案原案にはなく、陸軍参謀本部の要求により挿入されたものである。参謀本部は南部仏印撤兵に強硬に反対し、乙案不可を主張して東郷外相と激論になったが、結局、乙案を拒否すれば東郷が辞職し倒閣に発展する恐れがあったので、やむなく折れたという経緯があった。その際、援蒋停止の要求がネックになってアメリカが乙案を受諾しない事に望みをつないだのであるが、ハルの反応はその期待通りになったといえる。
^ アメリカ側は日米交渉を「正式な交渉」ではなく「非公式な予備的会談」と位置づけていたため、ハルノート以前の外交文書にも一貫して「非公式」と明記している。因みに六月二十一日附米国案には“Unofficial, exploratory and without commitment(非公式、予備的段階にして拘束力なし)”と記されている。
^ “tentative and without commitment”がなくても注釈1の条件を満たしていないので文書上は最後通牒とはならないことは留意する必要がある。
^ 第2項3 日本国政府は、支那及び印度支那より一切の陸、海、空軍兵力及び警察力を撤収すべし
^ ハルノート第二項6、7、8及び5を指す

脚注
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^ コトバンク 最後通牒(世界大百科事典 第2版 平凡社)の項を参照のこと
^ インターネット特別展 公文書に見る日米交渉 ダイジェスト アジア歴史資料センター
^ 防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯(5)』
^ 森山優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか「両論併記」と「非決定」』
^ ジョナサン・ G.アトリー 『アメリカの対日戦略』
^ 前掲『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』
^ 実松譲 編『現代史資料34 太平洋戦争1』
^ 田中英道『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』
^ 前掲『大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯(5)』
^ 東郷茂徳『時代の一面』
^ 『その時歴史が動いた27』NHK取材班編集、KTC中央出版、2004
^ 東郷茂彦『祖父東郷茂徳の生涯』
^ 日暮吉延 2011, pp. 7.
^ 吉田茂 『回想十年』
^ 前掲『大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯(5)』
^ 同『大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯(5)』
^ 野村吉三郎『米国に使して』
^ 英語原文は英語版ウィキペディア「w:Henry L. Stimson」のページを参照
^ 前掲『現代史資料34 太平洋戦争1』
^ 田村幸策 『太平洋戦争外交史』
^ 吉田茂 『回想十年』
^ ジョセフ・グルー『滞日十年』
^ コーデル・ハル『ハル回顧録』
^ 前掲『現代史資料34 太平洋戦争1』
^ 秦郁彦 『陰謀史観』 新潮新書(新潮社)、2012年、86,87。
^ 前掲『大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯(5)』
^ NHK BS歴史館「真珠湾への7日間〜日米開戦・外交官たちの苦闘と誤算〜」
^ 大杉一雄『日米開戦への道(下)』
^ 前掲『大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯(5)』
^ 前掲『時代の一面』
^ 2013年3月7日付読売新聞夕刊
^ 日暮吉延 2011, pp. 38-39.
^ 野村吉三郎『米国に使して』
^ 前掲『時代の一面』
^ 細谷千博、佐藤元英『発掘 日米交渉秘録 戦争回避の機会は二度潰えた』中央公論2007年12月号所収
^ 前掲『ハル回顧録』
^ 前掲『太平洋戦争外交史』
^ 前掲『太平洋戦争外交史』
^ 『検証・真珠湾の謎と真実』、秦郁彦、PHP研究所、2001
^ 中村粲 監修 『東京裁判・原典・英文版 パール判決書』 ISBN 4336041105
^ 当然ながら、アメリカは日本側の石油残量について重々承知していた
^ ハーバート・ファイス『真珠湾への道』p.279
^ アメリカの教科書に書かれた日本の戦争、越田稜編、梨の木舎、2006年。
^ ウィンストン・チャーチル, 『第二次世界大戦』, ISBN 4309462138

参考文献

日暮吉延「国際法における侵略と自衛 : 信夫淳平「交戦権拘束の諸条約」を読む」 、『法学論集』45(2)、鹿児島大学、2011年、 pp. 1-41、 NAID 40019193506。