フランス

 

王朝は17世紀のルイ14世の時期に最盛期を迎えている。この時期のフランスはヨーロッパ最大の人口を有し、ヨーロッパの政治、経済、文化に絶大な影響力を持っていた。フランス語は外交の舞台での共通語となっていた。18世紀にはフランスの知識人の中から多くの啓蒙思想が生まれ、科学的な大発見がなされている。加えてフランスはアメリカ、アフリカ、アジアに広大な海外領土を獲得していた。特に重要だったカリブ海の植民地のサン=ドマングにおいては、奴隷貿易によって導入された黒人奴隷を酷使したサトウキビやコーヒーのプランテーションが築かれ、1804年のハイチ革命によってハイチが独立するまで莫大な歳入をフランスにもたらした。

王政から共和政へ

1789年にフランス革命が起きて王政は倒れ、1793年にルイ16世とマリー・アントワネットが処刑され、同時に数千人ものフランス市民が恐怖政治の犠牲となっている[5]。政治的混乱ののち、1799年にブリュメールのクーデターによってナポレオン・ボナパルトが共和国の権力を握って第1統領となり、やがて皇帝に即位して第一帝政(1804年-1814年)を開いた。ナポレオン戦争と呼ばれる一連の戦争を通じてナポレオンの軍隊はヨーロッパの大部分を制覇し、彼の一族が新たに作られた国々の王位に即いた。この戦争で数百万人が犠牲となっている[6]。
『民衆を導く自由の女神』ウジェーヌ・ドラクロワ画。

1815年にナポレオンがワーテルローの戦いに敗れた後、フランスは王政復古したが、王の権力は憲法に制約されていた。1830年、7月革命によって立憲君主制による7月王政が立てられた。この王政は1848年の2月革命によって終わり、第二共和政に移行するが、1852年にルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)が第二帝政を開く。ナポレオン3世はボナパルティズム的手法で国内を固め、インドシナ半島やメキシコなどに積極的に出兵したが、1870年の普仏戦争敗北の際に退位、パリ・コミューンの騒乱を経て第三共和政が成立した。

フランスは17世紀以降、1960年代まで広大な海外植民地を有しており、その植民地帝国は大英帝国に次ぐ規模だった。1919年から1939年の最大時にはフランスは12,347,000km²(フランス本国を含む)の領土に広がり、世界の陸地の8.6%を占めていた。

フランスは第一次世界大戦と第二次世界大戦の主戦場となっている。第一次世界大戦では140万人が犠牲となっており[7]、この時は領土の一部が占領されただけにもかかわらず、全土を占領された第二次世界大戦よりも多くの犠牲を出した。戦間期には人民戦線政府によって様々な改革が試行された。第二次世界大戦ではドイツの電撃戦に敗れて、フランス本国は北部のドイツ占領地と南部の傀儡国家ヴィシー政権に分断されたが、シャルル・ド・ゴール率いる自由フランスが連合国についたため、辛うじてフランスは戦勝国の一員となった。