オランダ

 

元来、現在のベネルクス地方は神聖ローマ帝国の領域の一部で、毛織物産業や海上貿易により栄えていた。

15世紀末からスペインを本拠とするハプスブルク家の領土(家領)となった。宗主国スペインによる重税政策に対する反発とともに、主に現在のオランダ地域を中心とするネーデルランド北部地方の宗教は利潤追求を求めるカルヴァン派が多数を占めていたため、カトリックを強制する宗主国スペインとの間で1568年にオランダ独立戦争が勃発した。しかし、戦争の長期化により、カトリック教徒の多かった南部10州(現在のベルギーとルクセンブルク)は、独立戦争から脱落した。この八十年戦争の結果、1648年のウェストファリア条約で独立を承認された。

ネーデルラント連邦共和国は17世紀初頭以来東インドを侵略してポルトガルから香料貿易を奪い、オランダ海上帝国を築いて、黄金時代を迎えた。しかし、イングランドとの3度にわたる英蘭戦争で大きな打撃を受け、18世紀末にフランス革命が勃発すると、革命軍が侵入しバタヴィア共和国が成立した。間もなく、ナポレオンの弟ルイ・ボナパルトを国王とするホラント王国に変えられ、さらにフランスの直轄領として併合された。

ウィーン会議ではこれまでオーストリア領であった南ネーデルラント(現在のベルギー、ルクセンブルク)を含むネーデルラント王国が成立し、オラニエ=ナッサウ家が王位に就いた。これが現在のオランダ王国の起源である。ただし、ベルギーは1830年にオランダに対して独立戦争を起こし、1839年にはオランダはベルギーの独立を承認した。

(1873年(明治6年)には岩倉使節団がオランダを訪問しており、当時のロッテルダム、ハーグ、アムステルダムなどの様子が『米欧回覧実記』に、一部イラスト付きで詳しく記されている[2]。)

ナポレオン戦争後はイギリスが世界覇権を称え、オランダの海上覇権は地に落ちた。オランダは残された東インド植民地(インドネシア、オランダ領東インド)の領域支配を進め、この地において過酷な植民地支配を行った。第一次世界大戦では中立を維持した。

第二次世界大戦では中立宣言にもかかわらずドイツに本国を占領され、オランダ王家はイギリスに亡命した。その後1941年に中立を破棄し日本に宣戦布告するが、東インド植民地はまもなく日本軍に占領された。オランダ本土については、1944年9月に連合国軍がマーケット・ガーデン作戦を実施してアイントホーフェンおよびその周辺地域を解放するが、アムステルダムを含めた多くの地域の解放は、1945年春にドイツが降伏してからである。その間、鉄道労働者によるストライキに対する占領軍の報復に遭い、国民への石炭や食料の供給が絶たれた。

オランダとアジア植民地
オランダ海上帝国の最大版図。

オランダは早くから世界進出し、アジアとも関わりが深い。オランダによるジャワ島を中心とするオランダ領東インド支配においては、1825-30年におきた民衆反乱を弾圧したのち、「強制栽培制度」を1830年に実施した。これは、ジャワ農民に対し、土地の一定割合で稲作など食用の栽培を禁止し、コーヒーやサトウキビといったヨーロッパ輸出用の高級作物の栽培を強制する制度で、ナポレオン戦争後のオランダ本国がおかれた経済的苦境を、打破するためのものであった。この制度により、ジャワから強制栽培品を安く買い上げ転売したオランダは経済が好転、鉄道建設をはじめ、産業革命と近代化のための資本蓄積に成功した。

厳罰によって実施されたこの制度で、ジャワ農民は稲や麦という自給食料を失い、1843-48年には飢饉に苦しみ多数の餓死者を出したと言われている。強制栽培制度は中断を伴い形を変えて20世紀まで続けられ、第二次世界大戦中の日本軍のオランダ領ジャワへの侵攻とその撤退後も解決されず、インドネシアとオランダとの独立戦争の終戦まで続いた。オランダはインドネシアに賠償をするどころか、インドネシアの独立を認めるに際しては、60億ドルの補償金をインドネシアに要求している。

インドネシア側はこうした被支配の歴史に対し、これまでオランダ女王のインドネシア訪問、2000年のインドネシア大統領の訪蘭などで謝罪を要求した。しかし2005年のインドネシア独立記念日にインドネシアを訪問したオランダ外相は、わずかに1945年以降の植民地支配と独立戦争についてしか謝罪していない。