イギリス

 

チャーティズム

ナポレオン戦争での勝利は、イギリス国内ではフランス革命に共感していた知識人と産業革命で勃興しつつあった資本家と労働者たちへの反動政権の勝利でもあった。この内政的な反動体制は1832年まで続いた。

この年の選挙法改正(英語版)によって小売店主の線まで拡大したが、依然として懸案であった腐敗選挙区はほとんど野放しのままで、法改正の恩恵からもれた大多数の勤労者たちはさらなる選挙権拡大をめざし、政治運動を展開することになった。これがチャーティズム運動である。チャーティズム運動は政治参加への要求だけではなく、飢餓にさらされていた労働者たちの熱望をかき立てることに成功した。彼等の運動は男子普選や腐敗選挙区の解消を骨子とした1838年の「人民憲章(英語版)」の策定に結実し、以降1842年、1848年の大規模なデモンストレーションに発展した。

既成政党であったホイッグ党とトーリー党は、1832年の改正でほぼ満足した資産家・中産階級を味方にしてチャーティズムを押さえようと試みた。この試みは成功し。チャーティズムの運動は、1848年革命に呼応した最後の大規模なデモンストレーションの後に沈静化した。
自由党・保守党の誕生

1830年代まで、ホィッグは中産階級の急進派、産業資本家を支持基盤としており自由貿易に対して積極的であった。一方のトーリーは農業や土地に基礎をおいた貴族や地主層に支持基盤を置いていて、保護貿易を志向していた。ホィッグもトーリーもこの時点までは、これらの支持基盤や政策的志向を一定度共有する議員グループ以上の存在にはならなかった。

1835年に行われた総選挙(英語版)で、トーリーの有力議員であったロバート・ピールは自身の選挙区の有権者に対してタムワース・マニフェスト(英語版)を示した。これは政権公約という意味での最初のマニフェストであった。タムワース・マニフェストがこれ以上に重要なのは、このマニフェストが同年にトーリーの綱領として採択された事にある。これによってトーリーはそれまでの議員グループから脱却して近代的な政党である保守党へ脱皮した。

ピールは1841年に首相に就任し、1846年に穀物法を廃止した。続くホイッグの首相ジョン・ラッセルの下で、1849年には航海法が廃止され産業資本家が求める自由貿易が実現した。このようにピールは保守党議員でありながら自由貿易に積極的な姿勢を示した。ピールに同調する議員をピール派と呼ぶ。ピールが議員を辞すると、ピール派は次第に保守党から離れホイッグに合流した。このときまでにホイッグには同じくトーリー出身で自由主義外交を志向したカニング派も合流していてこれらの連合体として自由党が成立した。

この後、自由党と保守党、自由貿易派と保護貿易派の政治闘争を中心にしてイギリス議会政治が発展した。この間の自由党の最有力政治家はウィリアム・グラッドストンであり、保守党のそれはベンジャミン・ディズレーリであった。彼ら有力な政党政治家たちが自由・保守両党をリードして定期的な政権交代を繰り返しながら国政を指導し、民主主義の理念を充実させた。

この議会政治と平行して、選挙法の改正が1867年、1884年、1918年、1928年と行われた。1867年の選挙法改正(英語版)では都市部労働者に対して選挙権が付与され、有権者の総数は200万人程度まで増えた。1884年の選挙法改正(英語版)では地方の労働者に対して選挙権が与えられ、有権者は440万人まで増えた。
労働党の誕生

67年と84年の選挙法改正によって、選挙権は労働者まで拡大した。これによって従来の既成政党である自由・保守以外でこれら労働者の支持の受け皿として労働者政党を結成しようとする運動が19世紀末に起こった。1884年に結成されたフェビアン協会を母体として1906年に「労働党」が成立された。労働党は同年緒総選挙で26議席を獲得し議会勢力に足場を築いた。続く1910年の総選挙ではアイルランド問題の解決に取り組む自由党と連立し政権入りを果たした。
帝国の最盛期
イギリス帝国統治下の経験を有する国・地域。現在のイギリスの海外領土は赤い下線が引いてある。

対仏戦争終了後、ヨーロッパのみではなく各国植民地の地図は一変した。フランスは当面の間、四国同盟によって封じ込められ、スペイン、ポルトガルの植民地は程なく独立し、オランダもケープ植民地をイギリスに奪われた。産業革命によって得た経済的優位性を得ていたイギリスはナポレオン戦争勝利によって覇権を確たるものとしたのである。
中南米

アメリカ合衆国大統領モンローの「宣言」とともにラテンアメリカ諸国諸国の独立を支えた外相カニングの不干渉政策は宗主国と切り離した植民地を衛星経済化しようとの意図に基づいたものであったが、新世界のミドルクラスたるクリオーリョたちは旧弊な元宗主国よりも、イギリスの自由主義に引きつけられた。そのため、独立後のラテン・アメリカ諸国はイギリスへの依存を強めていった。独立当初の奴隷制や独裁など、前近代的な要素を残した現地社会はイギリスにとって必ずしも市場としての条件を揃えていた訳ではないが、イギリス人の移入とともに徐々に生活のイギリス化が進行し、19世紀後半までにはラテンアメリカ諸国は総じて良い市場へと成長したのであった。
アジア

三角貿易の要であったインドはインド大反乱を期に、東インド会社の手からイギリス政府の手へと取り戻され、インド帝国として生まれ変わった。運営自体が本国植民地省と総督の手に委ねられたことによって、インドは名実ともにイギリス帝国の最重要植民地となった。

この後、19世紀末から20世紀前半にかけて、列強間の植民地獲得競争が激しさを増し、それに伴い帝国のコストは重くイギリスにのし掛かるようになった。これをインドの阿片栽培で賄いイギリス帝国全体の赤字を相殺し財政を健全化した。こうしてインドはいわば帝国の維持機関としての役割を担うことになった。

インドの阿片は主に中国で売買され、これは1840年に清との間で起こった阿片戦争のきっかけになった。阿片戦争とこれに続く1857年のアロー戦争によって、イギリスは極東の中継貿易地である香港を手に入れ、さらに中国大陸の経済的利権も獲得して中国の半植民地化に先鞭を付けた。
アフリカ

18世紀末のナポレオンのエジプト遠征や、19世紀前半のギリシャの独立運動はオスマン帝国に動揺をもたらし、この結果属領であったエジプトの独立運動を促すことになった。1830年代にエジプトはムハンマド・アリーの指導の下に実質的な独立を果たした。新興エジプトは近代化を画策してフランスとともにスエズ運河の建設に乗り出すが、膨大な建設費によって財政は破綻し、経済的にイギリスの支配を受けることになった。1882年にアフマド・アラービーの対英反乱が鎮圧されるとイギリスはエジプトを保護国化した。
帝国主義の対立

19世紀半ばから19世紀末にかけてのヨーロッパはイギリスのヘゲモニー下にあり、概ね平穏であった。そのため、古代のパクス・ロマーナに習い、この時期を称してパクス・ブリタニカ(Pax Britanica:イギリスの平和)と呼ぶ事がある。五賢帝時代のように、この時期のイギリス帝国はまさに最盛期を迎えていた。ヴィクトリア女王の統治の下、科学技術は発展し、選挙法改正により労働者は国民となり、シティには世界中から資本が集まり平和理に各国に影響力を行使することができた。(1872年当時のイギリスの様子は日本の岩倉使節団の記録である「米欧回覧実記」にも詳しく記されている[1]。)しかし、フランスとのアフリカに場所を移した植民地競争、新興国ドイツ、アメリカの追い上げ等、水面下では次の時代に向けた動きが活発化していたのもまたこの時代である。
第一次世界大戦
端緒
三国協商と三国同盟

19世紀後半になるとドイツの産業革命が急激に進展し、工業力でイギリスに追いつく勢いを見せた。国内産業の発達したドイツは海外に新しい植民地を欲し、すでにイギリス、フランスによって色分けが成されていた植民地の再分割を主張するようになった。このためドイツとの対立が激化した。イギリスは対ドイツの安全保障策としてフランスと英仏協商を、ロシアと英露協商を結んで三国協商とし、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対抗しようと試みた。1914年、サラエヴォ事件によってオーストリア・ハンガリー帝国次期皇位継承者フランツ・フェルディナントが暗殺されたことを契機にして、ヨーロッパの大国同士が争う第一次世界大戦に突入した。

当時の首相のハーバート・ヘンリー・アスキスはドイツが中立国ベルギーを侵略したことに対して対独宣戦することを決意した。イギリスはフランスに大陸遠征軍を派遣、フランス、ベルギー軍と共に西部戦線でドイツ軍と対峙した。当初イギリスでもこの戦争は比較的短期間で終了すると予測されていたが、緒戦のマルヌ会戦でドイツ主導の短期件戦計画が破綻すると両軍とも北海からアルプスまで至る塹壕を掘ってにらみ合い、西部戦線は膠着状態に陥った。
初期

膠着した戦線で連合軍、中央同盟軍は互いにしばしば攻勢をかけ戦線の突破を企てたが、これらの企みはほぼ全てが多数の死傷者を出しただけで終わり、全く前線を前進させることは無かった。

イギリスが担当するイーペルでは大戦中イギリスとドイツでイープルの取り合いを数度繰り返した挙句、双方で50万人以上の死傷者を出した。しかしイープルの戦い(英語版)は街を廃墟にしただけでイギリスにもドイツにも何ももたらすものが無かった。また、1916年のソンムの戦いではフランス軍と共同し、新兵器の戦車を投入するなどしてドイツ軍の前線に攻勢をかけ戦線突破を図ったが、攻勢を開始した7月1日だけでもイギリス軍は2万人近い戦死者を出した。

こうした前線の失敗は西部戦線だけでなくトルコでも起こった。1915年イギリス軍はANZACやカナダ軍と共同でトルコ上陸を目指したが作戦は見事な失敗に終わった。これがガリポリの戦いでイギリス軍を主力とする連合軍は4万人以上の戦死者と倍近い負傷者を生み出したがトルコを陥落させることはできなかった。

ガリポリやソンムでの戦いが多大なる犠牲を出しながらも何も得ることが無かったということが判明するとイギリス本国では政変となった。首相のアスキスはその座を引きずり下ろされ、代わって陸相のデビッド・ロイド・ジョージがその後を襲った。この時の政変が戦後のクーポン選挙の遠因になっている。
総力戦

第一次大戦は人類史上初の世界的規模で展開した未曾有の総力戦となった。この経験はイギリスに限らず、ヨーロッパ全土に歴史的な影響を残した。総力戦では国家の持てる軍事力以外にも、工業力、経済力、外交能力などあらゆる能力が全て戦争に動員される。

外交面ではドイツの背後にある同盟国トルコを倒すために、戦後の中東地域の枠組みに関する約束手形を乱発した。そのうち将来パレスチナ地域にユダヤ人国家の設立を約束したのが、バルフォア宣言、アラブ人のトルコからの独立を約束したのが、フサイン・マクマホン協定、ロシア、フランスとの間で中東利権のドイツの排除と再分割を約したのがサイクス・ピコ協定である。これらの協定は戦後の中東地域の混乱を増大させる要因ともなった(イギリスの三枚舌外交と呼ばれる)。
終結

この戦争は、イギリス・フランスの敗北によって対英仏債務の回収ができなくなることを恐れたアメリカが、長い孤立主義を破ってヨーロッパの戦争に参加するということで軍事的には解消された。結果として戦争には勝利したものの長期間に及ぶ総力戦によって国力が疲弊したイギリスにも影が落ち始めた。特に新大陸の若い国アメリカの助けなしで戦争を終えることはできなかったということは、19世紀から20世紀のはじめまで、ヨーロッパはもとより世界的規模でリーダーシップを発揮し続けたイギリスが、その座から落ちていくことを示していた。
グレートブリテン及び北アイルランド連合王国
アイルランドの独立

19世紀末から20世紀初頭にかけてのアイルランド自治を要求する運動により、アイルランドの地位はしばしば政治的な問題として取り上げられていた。19世紀末に提案された2度のアイルランド自治法案はいずれも廃案となったが、1914年にようやく自治法案が可決された。しかしこの自治法は大戦の勃発を理由に施行されずに凍結されることになった。戦争の長期化が予測されなかったためアイルランド側にも一定の了承があったが戦争が長期化することでこの目論見は外れた。戦中を通してイギリスに対する不満は増大し、ドイツの裏工作によって1916年に大規模な対英反乱とアイルランド独立の宣言が行われた。イギリスはこれに対し軍の投入と、反乱首謀者の処刑で応えたためイギリスに対する不信感は一層増した。

このような背景により、戦後のイギリスにとってアイルランド問題は緊急的な政治課題となっていた。18年の総選挙で大勝したロイド・ジョージはアルスター6州を北アイルランドとして分離し、北アイルランドのイギリス残留を条件にアイルランドの独立を認めることを公約に掲げた。一方で独立急進派はイギリスに対してゲリラ戦を展開しこれに応えた(アイルランド独立戦争)。これによってアイルランド問題の緊急性が増したイギリスでは1920年にアイルランド統治法が制定された。独立戦争が収拾されるに及んで統治法の枠組みの中でのアイルランド自治を英愛間で確認する英愛条約が締結され英王冠に忠誠を誓うアイルランド自由国の成立が確認された。一方アイルランドではこの条約に対しての賛成派と反対派の意見が集約できず、アイルランド内戦が勃発した。

その後アイルランドは1937年のアイルランド憲法の施行に伴い、国名をエールに変更した。第二次世界大戦後の1949年にはアイルランド共和国となって1949年に英連邦を離脱した。クロムウェルのアイルランド征服以来の入植によりプロテスタント系住民が多くなっていた北アイルランドは、カトリック系が多数を占める南アイルランドとは袂を分かち、連合王国に残る途を選んだ。しかしそのために北アイルランドでは少数派となったカトリック系住民と多数派のプロテスタント系住民の間に対立の火種を残すこととなり、又アイルランドが統一されていないという不満も残ることになった。
両大戦間期
戦後協調体制

第一次大戦後のイギリスの国際政治は戦後協調体制の確立から始まった。ドイツに対する処分はヴェルサイユ条約によって決定したが、ドイツの植民地剥奪、一部領土の縮小、軍備の制限、巨額の賠償金の要求を骨子とするヴェルサイユ体制は結果として安定しなかった。一方ワシントン会議で決定されたアジア・太平洋地域での戦後協調体制のワシントン体制では、完全にこの地域のメインプレーヤーがアメリカと日本に取って代わられたことを明確にした。ワシントン海軍軍縮条約、ロンドン海軍軍縮会議で決定した海軍軍拡競争の防止は一定期間以上の役割を果たすことはできなかった。アジアでは中国軍との間で1926年に万県事件、1927年には南京事件が勃発したが武力で断固として処断した。
議会勢力の変化

イギリスの国内政治ではロイド・ジョージは第一次大戦終了後直ちに議会を解散し、8年ぶりになる総選挙を実施した。この選挙は戦中イギリスをリードしてきた保守党と自由党の連立派とそれを率いるロイド・ジョージに対する信任選挙となった。この選挙でロイド・ジョージは自分を支持する自由党候補に対しては保守党党首の副署の付いた公認証書(Coupon)を発行したもの、公認証書を得られなかったアスキス派自由党候補の選挙区には公認証書を持った対立候補を送って徹底的に反対派を叩き潰した。このためこの選挙をクーポン選挙という。ロイド・ジョージの連立派が勝利し、保守党、自由党の非連立派が大敗した。連立政権が崩壊した後の1922年の総選挙では、前回選挙以来の分裂を引きずった自由党に対して、保守党が大勝した。自由党の議席数はアスキス派とロイド・ジョージ派を足しても労働党のそれをはるかに下回った。

翌23年の総選挙で、労働党は191議席と大躍進した。労働党は自由党と連立を組んで、初の労働党首を首班とするラムゼイ・マクドナルド内閣が成立した。この連立政権は翌24年の総選挙で労働党の党勢に陰りがみられたために解消されたが、1929年の総選挙で、労働党が初めて議会内第一党となったことによって第二次マクドナルド内閣が議会の過半数を占めていないながらも発足した。
恐慌への対策
イギリス連邦加盟国

1929年の総選挙によって誕生した労働党政権最大の弱点は、それが少数内閣であり議会内で過半数を維持していないということにあった。1929年にアメリカのニューヨークから発した世界恐慌はイギリスにも襲来した。これが労働党少数内閣を襲う。緊縮財政を強いられたマクドナルドは失業保険の削除など福祉政策に回す予算を削減せざるを得なかったが、これは労働党の存在意義に大きく関わるものであった。事実労働者の権利向上を謳う労働党はこの政策を放棄したとみられ1931年の総選挙で200以上の議席を減らして大敗した。

この選挙結果を受けて労働党内で責任論が噴出し、マクドナルドにそれを求める意見が多かった。1931年マクドナルドは党を除名され、労働党は従来から掲げてきた労働政策を維持するグループと、マクドナルド派に分裂した。マクドナルド派は保守党、自由党と連立政権を組織し、これを「国民政府」と銘打った。国民政府は金本位制の放棄、イギリス連邦の形成とそれをベースにしたスターリングエリア(英語版)の形成など矢継ぎ早に経済政策の刷新を行った。イギリスの経済不振は31-32年で底を打ち、以降回復傾向を見せるものの、広大な植民地を維持するだけの経済的基盤がもはやイギリスに存在しない事は隠し通せない事実となってしまった。

1935年に総選挙が実施され、労働党国民政府派が退潮し国民政府の首班は保守党党首のスタンリー・ボールドウィンに移行した。一方で野党労働党はこの選挙で党勢を大きく回復させた。以降も保守、自由、労働党国民政府派による国民政府は維持され続けるが国民政府の重要課題は、経済政策からヨーロッパ情勢へとシフトしていく。
ヨーロッパ情勢の変化

第一次世界大戦で敗戦国となったドイツは、その戦後処理に対して不満を持つ国内勢力が少なくなく、ファシズムの台等に反映された。ナチスを率いるアドルフ・ヒトラーは戦後協調体制であるヴェルサイユ体制に対してこれの破壊を目指した。イギリスでは第一次大戦の反省からヨーロッパ全土を巻き込む戦争の可能性について強い拒否反応があった。また経済的にも既にイギリス帝国が斜陽しつつあるのは明らかであった。首相のネヴィル・チェンバレンは、これらを背景にナチス・ドイツへの宥和政策を採り続け、再軍備宣言の容認、ザール併合、オーストリア併合の容認などヴェルサイユ体制の崩壊に加担した。

最大の戦争の危機に発展したズデーテンの帰属問題では、1938年のミュンヘン会談においてこれ以上の領土の拡張を行わないことを条件にズデーテンの併合を認めたが、ドイツはズデーテンの併合を皮切りに、チェコの併合、スロバキアでの傀儡政権の樹立など英仏との了解を反故にして領土拡張を続けた。これによって宥和政策を採り続けてきたネヴィル・チェンバレンの評価は下がり、代わって宥和政策に対して警鐘を鳴らし続けていたウィンストン・チャーチルへの待望論が高まりだした。
第二次世界大戦
ヨーロッパ

1939年9月1日にナチス・ドイツがポーランドへの侵攻を始めるとイギリスはフランスと共に対独宣戦布告を行った。これが第二次世界大戦の勃発である。ネヴィル・チェンバレンは失脚し、代わって首相にチャーチルが就いた。国民政府は解体され、保守党、労働党による挙国一致内閣が形成された。

宣戦布告直後にイギリスは再び大陸に遠征軍を派遣し、フランス軍、ベルギー軍と共に共同でドイツ軍の西進を阻むことは確認されたもの、西部戦線は一向に戦端が開かれる気配が見られず、西からの援護を受けられないポーランドは結局見殺しにされる格好になった。結局西部戦線は翌年5月からドイツの主導で戦端が開かれることになった。オランダ、ベルギーから国境を突破したドイツ軍はあっという間に連合軍をイギリス海峡沿岸まで追い詰めた。海まで追い詰められたイギリス軍はダンケルクの戦いで部隊をイギリスに帰還させることに成功するが、パリに追い詰められたフランス軍はドイツに降伏するしか道が残されていなかった。こうして早々に大陸に味方がいなくなったイギリスは島国であるために早々とドイツ軍の侵入を許すことはないものの、ヨーロッパで唯一国枢軸国に対峙することを迫られた。

フランスに続いてイギリスへの上陸を狙うドイツと大陸への足がかりをなくしたイギリスとの戦いは、イギリスの地理的な条件と両軍の軍事ドクトリンを背景として大規模な空戦へと移行した。これがバトル・オブ・ブリテンである。当初はドイツ空軍のイギリスへの一方的な攻撃で、ロンドンをはじめ大都市は大きな打撃を蒙った。ドイツ軍の攻撃目標がイギリス海峡沿岸に近いところから内陸部へと拡大すると航続距離の短いドイツ軍機に対してイギリスにも反撃のチャンスが巡ってきた。8月末には初めてベルリンを空襲した。以降ドイツとイギリスの爆撃の応酬になったが、独ソ戦の開始により東にも戦線が開かれるとドイツは早々にイギリス上陸作戦を諦めざるを得なかった。
アジア

1941年12月8日に日本が対米英宣戦布告を行うことによってアジア、太平洋地域での戦線が開かれることになった。日本軍は早々に香港、マレー半島、シンガポールといったアジアにおけるイギリスの拠点を陥落させ、ビルマに侵攻し、インドを窺う姿勢をとったことは大きな打撃となった。海戦でもマレー沖海戦では日本の航空機部隊に対して東洋艦隊が壊滅したのはイギリスの海軍力の斜陽を示すことになった。

第一次大戦の主要戦線がヨーロッパに限定されたのに対し、第二次大戦ではアジアでも大規模な戦線が開かれた。これはイギリスの用兵に大きく影響した。第一次大戦では多数の英印軍、オーストリア軍及びニュージーランド軍からなるANZACが大規模にヨーロッパ戦線に投下された。一方、第二次大戦では、ビルマ戦線に英印軍を投下することを余儀なくされ、又インドの離反の備えも必要とした。オーストラリアも開戦初期にダーウィンを空襲されると危機感が煽られ結局オーストラリア軍の大部分をオーストラリアに帰還させなければならなかった。

ただしこのようにしてイギリスがアジア戦線に投下した兵力も連合軍の主力になり得ることは無かった。この方面の反撃は専らアメリカ軍に委ねられることになった。
アメリカの参戦
ノルマンディー上陸作戦

チャーチルは真珠湾攻撃以前から米国の大戦参加を要求していたが、米国は大戦への参加には終始及び腰であった。しかし、日本の対米宣戦布告に伴って、独伊も対米宣戦布告をしたことはイギリスにとって渡りに船であった。これによってアメリカはヨーロッパ戦線への参戦が可能になりイギリスは直接支援を得ることができる相手を見つけることができた。目下の目標は北アフリカ戦線の攻略であり、将来的な目標は西部戦線の復活であった。

1943年5月までに北アフリカ戦線は終結し、8月には地中海を越えてシチリアに上陸、9月にはイタリア半島本土に取り付くことに成功した。本土への連合軍上陸を許したイタリアは9月8日に無条件降伏した。但しベニート・ムッソリーニは北部に逃れたため、ドイツ軍の支援によってイタリア戦線は継続された。

続いて西部戦線の復活が具体的に検討され始めた。42年から43年にかけて予備的な上陸作戦が行われた後、1944年6月6日に英米軍を主体としたノルマンディーへの大規模な上陸作戦が実施された。これによって西部戦線が復活し、ドイツを東西両方から挟み込む体制が確立した。以降戦争は急激に連合軍優位に進展していくことになった。8月末にはパリを開放、9月初めにはアントウェルペンを解放しヨーロッパ西部の戦線は急激に拡大していった。1945年4月にはソ連軍がベルリンに侵攻、5月8日にドイツは連合軍に対し無条件降伏した。

太平洋戦線でも、物資、工業力に勝るアメリカが優位に戦線を展開し、1945年9月2日にはポツダム宣言が調印され、日本も無条件降伏した。