朝鮮の教育

 

教育制度

朝鮮に設立された京城帝国大学

京城女子師範学校。女性教師の育成が行われた。京城師範学校では男性教師が育成された

京城歯科医学専門学校歯科医の育成が行われた。京城帝国大学京城医学専門学校では医師の育成も行われた

教育制度の整備と識字率向上

朝鮮では1895年甲午改革により近代教育制度が始まったが、1906年の時点でも小学校が全国で40校未満[30]であり、両班の子弟は書堂と呼ばれる私塾で漢籍の教育を受けているような状況だった。

初代統監に就任した伊藤博文は小学校が40にも満たない大韓帝国の官僚に対し「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、学校建設を改革の最優先事項とした[30]。伊藤が推進した学校建設事業は併合後も朝鮮総督府によって継続され、朝鮮における各種学校は1940年代には1000校を超えていた[30]

朝鮮総督府は朝鮮人による自主的な教育については警戒、統制を行いつつ[31]、教育内容の整備を進め、日本語朝鮮語をはじめ算数、日本史、朝鮮史(朝鮮史は「朝鮮事歴」という名前で教育されていた[32])、修身などの教育を公立学校を中心に展開した。

初等中等教育

併合当初、朝鮮における初等中等教育制度は日本内地人に対するものと朝鮮人に対する者に対するものが別個に存在していた。内地人向けの小学校、中学 校と、朝鮮人向けの普通学校、高等普通学校があったが、1938年の朝鮮教育令改正により普通学校、高等普通学校は廃止され、内鮮人の共学制が採用され た。

日本統治下で初等教育が順次拡充され、初等教育への就学率は日本統治時代の最末期で男子が6割、女子が4割程度であった。初等学校(普通学校・小学校・国民学校)の教員は、朝鮮の師範学校で養成される教員と日本内地から派遣される教員が混在していた[33]。1946年度からは日本内地と同様の八年制義務教育制度鞨(国民学校初等科高等科)を導入することが予定されていた。

高等教育

高等教育については、官公私立の旧制専門学校が多数設立されたほか、1924年京城帝国大学が、朝鮮唯一の旧制大学として、また日本で6番目の帝国大学として日本内地の大阪帝国大学名古屋帝国大学よりも早く設立された[34]。日本統治時代後期において、京城帝国大学における内地人学生の比率は6割程度、朝鮮人学生の比率は4割程度であった。

朝鮮語

ハングル表記の『毎日新報』(1945年8月14日)

李氏朝鮮では清国との関係もあり漢字が重視される一方、ハングルは軽視され教育されることはなかった。また、一般人(特に女子)のための教育機関は皆無で、大多数の朝鮮人は読み書きができない状況だった[35][36]。日本統治下においては学校教育における科目の一つとしてハングルと漢字の混用による朝鮮語が導入されたため、朝鮮語の識字率は一定の上昇をみた[37]

1911年に朝鮮総督府は、第一次教育令を公布し、朝鮮語は必修科目としてハングルが教えられることとなった[38]。朝鮮語の時間以外の教授言語としては日本語が使用された。総督府は1912年に、近代において初めて作成された朝鮮語の正書法である普通学校用諺文綴字法を作成し、1930年には児童の学習能率の向上、朝鮮語の綴字法の整理・統一のための新正書法である諺文綴字法を作成し、それを用いた。

日中戦争以降、総督府は日本軍の兵士として朝鮮人を動員することなども視野に入れ、とくに1938年の国家総動員法をうけ朝鮮地域では内鮮一体の名の下で「朝鮮人」の日本人化を急ぐようになった。

また、「朝鮮が日本領である以上朝鮮語は日本語の方言であり、内地の方言同様最終的には消滅させるべきである」という朝鮮語方言論[39]や、「帝国臣民である以上朝鮮人はその民族性を捨てて、大和民族に同化せねばならない」とする論[40]に 基づき、朝鮮語を強制的に廃棄して日本語を母語化するよう求める意見が日本人言語学者たちから提出されるようになった。1938年の第三次教育令で朝鮮語 が随意科目となったことを皮切りに、1942年には用いる言葉を賞罰の対象にする運動を開始するなど「国語常用」運動が本格化し[41]、 公教育からは朝鮮語が排除されていった。「第八十六回帝国議会説明資料」(1944年12月、朝鮮総督府)によれば、1938年には「国語を解する朝鮮 人」の割合が前年度の8%弱から13%強にまで伸びて(1943年末で22%)いる。また1942年10月には朝鮮語学会の主要メンバーが治安維持法違反で逮捕されるという事件が起こった(朝鮮語学会事件[42][43]。これを根拠として日本当局が朝鮮語の抹殺を図ったとする主張もある[44]。1945年の「解放」当時南朝鮮の12歳以上の総人口の78%はハングル文盲であったとされ、これをもって統治末期の日本語普及・強制政策の問題性を指摘する論もある[45][46]。普通初等学校への就学率は1910年で1.0%、1923年で2ケタ台にのり11.2%、1935年で21.7%、1943年で49.0%であり、公教育の普及は漸進かつ漸増的なものであった[47]

統治末期でも朝鮮語が日常会話や新聞などから完全に排除されたわけではないが、学校の会話で朝鮮語を使用することが、罰をもちいて排除されていたとする証言があり、一般化するさいには注意が必要である。[48] ことや、朝鮮総督府においても、1921年から1945年の日本統治終了に至るまで、朝鮮語能力検定に合格した職員を昇進や給与において有利に処遇していた[49]こ とから、朝鮮語の抹殺が企図されていた形跡はなく。1943年当時に至っても日本語を解する朝鮮人は1,000人当たり221,5人に過ぎないとする資料 もあり(「朝鮮事情」1940-1944年版)、8割の朝鮮人は日本語を話すことが出来ず、朝鮮語を奪い日本語を強制するようなことは不可能であったとす る論もある[50]